こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(ヘブル人への手紙4章1節)

 

 神の安息、とは神ご自身がご自分のわざを休まれた、という意味である。

現代も神は働かれている。「すべての人が真理を知るようになるのを望んで」おられ、「今は恵みのとき、今は救いの日」で、救いのチャンスが残されているのである。

 

 一方、安息、ということについて、人はどこか罪悪感を抱く部分がある。

休むことや、それほどの安心を手に入れるのならそれなりの代償が必要である、という考えだ。

 確かに代償は必要で、それを支払ってくださったのがイエス様である。ところがイエス様を信じるのではなく、自分の力や努力に頼ってしまう過ちを犯す場合がある。それが律法主義に至ってしまう。

 

 初代教会時代には律法主義者が多く教会に入り込んでいた。律法とは神の聖さを示す基準であり、人間には達成しえない高潔な基準である。これに向き合うなら、良心のとがめを感じる。

 良心のとがめを主に向けるのではなく、それを自身で塗り替えようとする場合、信仰告白をしたとはいうものの表面的で、本当に自分の罪を認めてキリスト信者になったのではない場合、実は罪の責めからの逃避として、教会に集まったり熱心に奉仕して、一見整った信仰者のようにみえてしまう。

 ところが、本当に罪を認め、キリストの血潮を信じ、救い主として受け入れていないならばその人は救われていないので、いくら熱心で立派にみえてもその人の本性は罪人の肉に刺激されているだけ、となる。また、一応何を信じたらよいか知っている、主を信じて救われたのであるからあとは何もしなくてよい、という考えにも注意が必要である。

 救われて真の信者であっても世に流されて、表面上、世の人と同じ、という歩みに至ってしまうことにはことさら警戒しなくてはならない。「万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」とは、私達教会のなかに、本当には信じていない人が真に悔い改めるように願おう、ということなのである。

 主もそのことを熱望しておられる。ではその手段として私達はどうすればよいのであろうか。私達すべては、たとえ救われていてもまだ肉の性質に刺激されやすく、世的な考えや行動や判断に傾斜しやすい。だからこそ、聖書から神のみ旨を知り、吸収し、信仰を言い表すのである。

 それは世に対してだけではない。また教会のなかで自身も含めてそれぞれが「わが魂よ」と自覚するのである。何を第一とすべきなのか、繰り返し示すのである。キリスト信者の大切な任務であるといえよう。