井戸のそばで

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13~14)
 
ある女の人が夕方に人目を忍んで井戸の端にやってきた。そこで主イエス様と出会う。
生活に欠かせない水を得る度に、彼女は、人目を避けなければならない自分自身の人生の歩みを振り返らざるを得ず、ただ面倒である、という以上の悩みと苦しみを水汲みという作業に対して思い描いていた。
この時初対面であった主イエスは彼女の過去をか暴く。彼女は五度の結婚と離婚を重ねていて、現在は夫ではない男性と暮らしていた。彼女はそのことを恥じ、渇きをおぼえない水があるのなら、自分の重い悩みが解決する、その水を手に入れたい、と願った。
主イエスか述べた水とは、幸福のことをのべている。彼女は結婚生活に幸せを賭けていたのだ。豊かな結婚生活を送るのに越したことはないが、究極の幸せとなるのか、といえばそうではない。他にも私たちは何かに幸せを賭けているものだと思う。高収入、高学歴、容姿端麗、健康など。あるに越したことは無いが、実は全て渇きと不安をもたらすものではなかろうか。それらを失う恐怖、呪縛、また、もっと欲しい、とさらなる渇きを覚えるものではなかろうか。真実の幸福、溢れる喜びと平安は命のルーツこの世界の創始者である方によってのみ与えられる。神が人となられたイエス様が十字架で死によみがえられたのは、この方を信じるものに罪の赦し、永遠のいのち、天国を与えてくださる。そこに向かって歩む人生こそがまさに渇くことのない人生である。