もし,モーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら,たとい,誰かが死人の中から生き返っても,彼らは聞き入れはしない。
ルカによる福音書 16章31節

19節からはじまる金持ちとラザロの記述は,ラザロという個人が登場してくるので
例えばなしではなく事実の記述がなされていると理解できる。
金持ちは何匹もの貝から採取される紫の染料で染められた高級な衣服を「いつも」着て「毎日遊び暮らしていた」大富豪である。日本の一番の長者はユニクロの社長と言われており,年収は8千億円と言われている。これは1万円札を積み上げるとエベレスト山と同じ高さになるほどのお金である。これほどの収入がある人を,多くの人の暮らしをうらやむだろう。この金持ちはこの世の成功者と言えよう。
かたや,金持ちの家の外には「全身おできの貧乏人」がホームレス生活をしている。彼の名はラザロ。「主は慰め」という意味の名である。おできとは「痛み」「はれもの」と英語では訳されている。全身を痛みに包まれ,他人の残飯で「腹を満たしたいほど」の生活を送っていた。ということは,彼は金持ちから施しは受けられなかったのであり,彼の傍らに居たのは,当時は汚れた動物とされていた犬だけであった。彼は,この世の敗北者と言えよう。
まったく対局にあるこの2人に,同時に死が訪れた。
私たちは,死について,改めて考えなければならない。それは死は私たちが望むようには訪れず,時に無常で不条理で,場合によっては突如おとずれる類のものである,ということだ。しかし,必ず,すべての人間が平等に迎える。
さて,あなたは,この死の備えができているだろうか。
死をどのように迎えるか,が,人生の成功と失敗を左右するものだ。
金持ちの最大の過ちは,神に背き,自己中心の人生を送ったことである。富豪になることが失敗ではない。彼は得た富をすべて自分のためにしか用いなかったのである。自己中心,自身を神とする生き方は最大の罪である。彼は,自己の罪の責めを,永遠の火の池で焼かれ続けることで受けることとなった。
一方ラザロは,痛みと困難に包まれた一生であった。病や貧困により社会からドロップアウトしてしまったが,神様を信じる信仰を持っていた。それゆえに,彼は死後に永遠の安らぎ,天国へ召されたのだ。「彼は慰められた」とある。

私たちは死の時期や状況を選択できないが,死後の永遠にかかる決断を選択できる。私たちをつくられ,生かし,私たちの罪のために十字架にかかって死に,よみがえってくださった主イエス・キリストを信じる道を選ぶことができる。背くこともできる。
最前の道を選ばなければならないことは当然である。誤った選択は永遠の損失である。

この選択は現代に生きる私たちに限らず,あらゆる人に求められている。
金持ちは焼かれ苦しみながら,自分の家族にはこんな苦しみの場所に来ないように,と切望した。彼はアブラハムにそう,求めたのである。
ところがアブラハムの答は「彼らにはモーセと預言者があります。」すなわち,誰かが奇蹟によみがえって神の福音を語るのではなく,聖書のみことばあるでしょう,聖書があるでしょう,と述べられた。
永遠の安らぎか,苦しみか,そのための大事な選択「あなたの若い日にあなたの創造者をおぼえよ」など,である。

私たちは共通して救いのチャンスを神様からいただいている。
永遠の損失にならぬよう,
永遠の安らぎと成功が得られるよう
心からおすすめしたい。