下記の記事は東洋経済様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

いま、「決められない⼈」が増えています。「トレンドを追う」「⼝コミを参考にする」「みんなが⾒ているものを⾒る」。情報があふれ、SNSでもさまざまな意⾒が⾶び交う現代で、「流されずにいる」ことは簡単ではありません。「⾃分に似合うもの」「⾃分が好きになれるもの」。コロナによって内省的になっているいまだからこそ、これらの⽬に⾒えない価値を感じ、自分だけの正解を選び取れるようになりたいものです。

「自分で感じて選び取るための“感性”は、習慣によって養われます」と語るのは、京都で330年続く陶芸の名家に⽣まれ、器アーティストとして世界で個展を開くなど活躍しているSHOWKO(ショウコ)さんです。「いまでこそ器をつくったり、ホテルの内装を手がけたりしていますが、社会人になるまで芸術に関する勉強をしたことはありませんでした。いまの作品づくりで発揮している感性は、すべて日常の習慣で養われてきました」。SHOWKOさんの著書『感性のある人が習慣にしていること』から、無理なく感性を養っていくためのヒントを紹介します。

江戸時代中期に京都で人気を博した画家の伊藤若冲は、花鳥画「動植綵絵(どうしょくさいえ)」を描く際に、1日中、自宅で飼っている鶏を観察していたといいます。実際に生きる鶏を丁寧に観察したからこそ、羽の1枚1枚、尾の先の躍動感まで、リアルに描くことができたのでしょう。

「微かに木々が揺れている。すこし風が吹いているのかな」

「川の音がいつもより大きいから、昨夜は雨が降ったのかな」

日常生活でも、味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚に集中して過ごすと、いろんなことに気がつきます。これは自分の美意識の定規に、細かい目盛りを刻んでいくことといえるでしょう。

感性のある人は小さな変化にも敏感

感性のある人は、身の回りの細部や変化をとてもよく見ています。だから、人と同じものを見ていても、他人とは違うことに気づき、たくさんの感覚や感情を得られるのです。どんなに細かい変化や違和感にも気づこうとする「観察する習慣」を身につけ、これまで目を向けていなかったことを意識して見つめ、日常を解像度高くとらえてみましょう。

この「観察する習慣」について、いくつかご紹介します。

■「同時にこなす」意識をもつ

生活しているだけでどんどん家が散らかっていく人と、そうでない人がいます。この違いの理由は、ふだんの行動に隠されています。後者は、一度の動きで複数の仕事をしている人なのです。

たとえば、料理人が料理をしたあとはシンクに洗い物がほとんど残りません。それはひとつの料理に集中するだけではなく、お客さんの食事の進行度合いを見て、食器の片付けなども含めたすべての段取りを組み立てて、一度の動きで複数の仕事をしているからです。

一度に複数をこなす習慣を身につけることで、周囲を観察する意識が高まります。これは料理に限ったことではなく、日常でも応用できます。

食器を洗う。ついでに蛇口の部分を磨いておく。

手を洗う。ついでにタオルを替えておく。

1階に物を取りにいく。ついでに2階から持っていくものを携える。

書いてみると特別なことではないように思いますが、実際に毎回の行動で意識するのは、なかなか難しいことです。

茶道では洗練された動きを極めている

実は茶道の手前では、こういった動きがたくさんあります。たとえば、2服目のお茶を1服目と同じお茶碗で点てるとき。お湯を入れたお茶碗を手のひらで包んでゆっくりと回し、「洗う」と「器を温める」を同時に行います。

また、大勢の方が参加するお茶会でお運びとしてお手伝いをするときには、「手ぶらで帰ってこないように」と注意されます。広間にお茶を運ぶと同時に、水屋へ下げるものがないか確認して、必ず何かを持って帰ってくるようにします。

一見とてもゆっくりと行っているようにみえるお茶のお点前ですが、実は極限まで効率化され、洗練された動きなのです。これを心得ていると、オフィスを移動するときも、家の中を移動するときも、自然と周りに意識が向くようになります。

観察しながら動き、できることを同時にこなす。そんな意識を持てれば、ふだんは気づいていなかったことにも意識が向くようになるでしょう。

■音を「分解して」聴いてみる

感性というと、「文化や歴史などの知識を学ばねば」と思う方もいるかもしれません。しかし、知識はときに、私たちの観察の目を曇らせます。

たしかに、文化や歴史の知識といった教養を身につけることで、作品への理解は深まります。たとえばクラシック音楽を聴くときなら、その歴史的背景や作者の来歴を知っているほうが、深く聴くことができるかもしれません。

ベートーベンの交響曲第2番、第2楽章は、とても美しく牧歌的なメロディですが、作曲されたのはベートーヴェンの持病であった難聴が悪化した時期でした。その背景を知ると、この曲とのギャップに驚かされます。この美しいメロディが、もっと追い詰められたものに聞こえるかもしれません。

つまり、背景や歴史を知っているのと知らないのでは、感じ方が変わります。感性は知識の集積の上に成り立つものでもあるのです。

それは重要なこととして、ときにはその知識が邪魔になることもあると、知っておかなくてはなりません。自然に音を楽しむ感覚や、無意識下に眠る感性がはたらかなくなってしまうのです。感性と知識、どちらかがもう一方に蓋をしてしまってはいけません。

そこで、たとえばクラシックのコンサートに行ったとき、たまに、それぞれの楽器の音ひとつひとつを選んで意識的に聴いてみてください。ひとつの楽器に意識を向けて、その演奏者の動きを観察し、そこから聴こえてくる音を全体のシンフォニーから聞き分けてみましょう。

音楽を聞くときは1つの楽器に集中してみる

ずっと観察し続けていると、複雑に重なりあった音のなかから、その楽器の音色だけが耳に飛び込んでくる瞬間があります。そこから個別の響きを再度合体させて全体のハーモニーを楽しむと、前よりもさらに楽曲を楽しめるようになるのです。

全体のなかにある細部に意識を向ける習慣を身につけることで、自然と深い観察ができるようになります。これは音楽の話に限りません。たとえば料理なら、口に広がる味のなかから、ひとつひとつの食材や調味料の味に意識を集中させてみるのもいいでしょう。

味や音を因数分解して観察することで、感受性は向上していきます。それぞれの細部の良さを知ったうえで、全体の調和を味わったときに、すべてのハーモニーを理解できるのです。

■モノの配置を「体で覚えて」みる

みなさんは、目をつぶったまま自分の部屋を歩けますか?

仕事から帰宅して、部屋がまっくらなままカバンをおろし、ソファにたどり着き、テレビのリモコンを手に取る。もしかしたら、意外とできてしまうのではないでしょうか?

このように、私たちは頭ではなく、体で場所を記憶していることがあります。そして心地よい配置を感覚的に覚えていると、多少の変化があったとき、少しの違和感にも気づけるようになります。そこで、身近なモノの配置を決めてみましょう。

例として、茶道における道具の配置について説明させてください。茶道では、お抹茶を点てるために使う陶磁器や漆などの作品、お茶碗、お湯を沸かす釜、それに水を入れておく水指、そしてお茶を掬う茶杓など、さまざまな道具を使います。

そして、すべての道具の配置はミリ単位で決まっています。茶道の場合は「畳の目の数」を基準とした測り方があります。畳の膨らんでいる筋目ひとつのことで、「1目」は1.51センチです。たとえば、「畳の縁から16目に座る」「5目離して置く」などのように単位として使います。

私も茶道を習いはじめたころは、「16目」と言われてもぱっと理解ができず、1目ずつ指で数えてたしなめられたものです。それが、ずっと「1目」単位の配置を意識していると、だんだんと慣れてきて、数えなくても物を置く場所がわかるようになりました。

正しい配置が感覚的に馴染んでくると、たとえ小さなズレでも、人間は感覚的に「快」「不快」を覚えます。この繊細な「快」「不快」の感覚を知った、ある出来事があります。

以前、茶道のお稽古で私が道具を置いて、お点前を終わろうとしたときに、茶道の先生に「ちょっとだけ心地がよくないのでは?」と呼び止められました。そう言われた私は、ほんの3ミリほど、蓋置きの位置を左に動かしてみました。すると、まるでさざ波が凪になるように、すべての道具が心地よく空間に「ぴたっ」と収まった感覚を得たのです。

 

心地よさには必ず理由があります。そして、その調和の乱れに気づくには、ふだんから意識を向け、心地よい状態を意識的に保っていなくてはいけません。調和がとれたモノの配置を感じることで、調和が乱れたときに違和感を持つことができます。身の回りにあるモノにも定位置を決めてあげることで、そのわずかな変化にも気づく観察力が養われていくでしょう。

これらの「観察する習慣」を身につけると、世界の情報量は一気に増えます。日々のあらゆることを「意識的」に感じられるようになり、小さな変化や違和感、魅力に気がつける感受性が高まっていくのです。これが、感性を養っていくための第一歩となります。

SHOWKO : 陶芸家・器アーティスト