おんせんばし 昭和24年4月施行 猪 ですね。
昭和24年・・伊東花街の様子に詳しい猪ですか?(`∀´)
花街というのは遊女屋や芸妓屋が集まっている所です。
この時代にはあったのですね。
昭和24年・・・伊東の花街の賑やかな状況をこの橋は
いっぱい見て来たのだろう。
だって、伊東の花街の本命は「猪戸」であったらしい。
伊東線が開通すると、猪戸の花街は更に発展した
そうである。
漁師の人達は「宵越しの金は持たぬ」と花街に足繁く通った
らしい。今の時代とは大きく違いますね。
伊東市民の生活の中に生きていると言われる椿の花が
大昔、猪戸温泉辺りは、一面にあしやよしが生い茂る
広々とした沼地でした。 カピバラではなく猪の湯(・∀・)
傷ついた猪が傷を治しているのを見て初めて温泉を発見した
という伝承を伴って来た。
民話・伝説 猪戸の湯 → こちら
こちらの御神木は療養中ですが、きのこ?凄い神秘的(゚Ω゚;)
少し猪戸通りを歩きますと・・・天城診療所
前に来た時は、目立たなかった肝臓先生の銅像が向きを
変えて目立つようになっていました。良かった・・。
作家 坂口安吾 が書いた小説 「肝臓先生」
のモデルとなった 天城診療所の先生、佐藤十雨氏。
今村昌平監督によって映画化。
坂口安吾碑
この頃の小説家ってこういう人が多かった。
太宰ファンが多いように安吾ファンも多いと思います。
【坂口安吾・ウィキペディアより】
ちょうど太宰の自殺した1948年6月頃から、鬱病的精神状態に陥る。
これを克服するために、短編やエッセイの仕事は断り、
長編『火』の執筆に没頭する。
しかし不規則な生活の中でアドルム、ヒロポン、ゼドリンを大量
に服用したため、病状は更に悪化し、幻聴、幻視も生じるようになり、
1949年1月に取材のために京都へ行った後には狂乱状態となり、
夫人や友人達の手により2月に睡眠薬中毒と神経衰弱で
東京大学医学部附属病院に入院。
4月に薬品中毒症状と鬱病は治癒し退院。
生活のために執筆を再開するが、軽く使用した薬物のために
7月に病気再発、伊東に転地療養して健康を取り戻し、
1949年4月読売新聞に「精神病覚え書」「僕はもう治っている」を掲載。
この夏から夫人とともに伊東に移り、1950年1月には「肝臓先生」発表。
続いて「安吾捕物帖」「安吾巷談」「安吾新日本地理」「安吾史譚」
などを連載し評論家として活躍、巷談師を自称する。
この後、またやっちゃったのですよ。だから伊東から去った・・
少しの距離でも歩いてみると、おもしろい発見がありますね(^-^)/
伊東市の猪戸(ししど)通りでした♪