2012(平成24年)1月~
NHK大河ドラマで「平清盛」が始まりますよね!
源頼朝の若い時、伊豆に流人されていた時代のことも
注目されるかな?
仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。
ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが
集まり狩や相撲が催されている。
しかし祐親が在京の間にその三女八重姫と通じて子・千鶴丸
を成すと、祐親は激怒し平家への聞こえを恐れて千鶴丸を
伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎の妻とし、
頼朝を討たんと企てた。
祐親の次男伊東祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて
一命を取り留めた。
頼朝29歳頃の事件であった。
31歳の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である
21歳の政子と通じる。
時政は山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、
政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった。
曽我物語より。
前に書きましたが→こちら
伊東の八幡神社にある源頼朝の遺墨碑(いぼくひ)のことです。
いつもぺタをありがとうございますm(u_u)m
社殿の横に稲荷神社があります。
社殿と稲荷神社の間の奥にある石碑。どうしてあんな奥にひっそりと
前にも書きましたが奥にある石碑、これが源頼朝遺墨碑(いぼくひ)
と言われています。
源頼朝の文書?
石碑の後ろをどうしても見てみたい!!
東郷平八郎が書かれて、昭和7年に建立された。
歴史案内人 市街地部会の方からお手紙をいただきました。
神社に源頼朝の碑がなぜあるかという質問に関してですが、
頼朝が伊豆流人として伊東に居たとされる二十年(北の小御所)に
暮らしたとありますが、北の小御所の場所が特定されて
いません。
以前頼朝の継承会という会が存在していて、継承会によると、
あの神社(八幡神社)の辺りが街中であり、北の小御所とも
離れていないと思われるので、神社の中に頼朝の碑を設置した
ようだと言う事でした。
頼朝の碑が神社の奥にありますのは、神社は応神天皇が
祭神となっておりますので、抜け出して前に碑を建てる訳には
いかず、後ろに下げてあの位置になったということでした。
長い間ありがとうございましたm(u_u)m
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伊東 八幡神社