韓国はノーベル文学賞が欲しいらしい | 堕ちる日本

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いや、むしろ韓国こそノーベル賞に一番近いんじゃないかなあ。

動画の韓国人が身をもって表している、このどうしようもない劣等感と自己矛盾と欺瞞と無知のやり場を題材にしたら、とんでもなく素晴らしい芸術作品が生まれると思うよ。数百年にわたって中国の属国として自国の文化も言葉もなんらアイデンティティらしきものを持たずに生きてきた半死人の民族が、その窮状から自分たちを救い出し近代化へと導いてくれた、本来格下だったはずの隣国に向ける嫉妬と虚勢。それが積もり積もって捏造に捏造を重ね、やがて本人もその虚像を真実だと思い込むに至る精神崩壊の過程。しかもそれが集団感染的に起こっている興味深い社会病理。踊らされる者、黙り込む者、利用しようとする者、狂信者、それぞれの選択。これほどすばらしい題材を持っている民族は今の世界にそうはいないだろう。これは嫌味で言ってるんじゃなくて真剣に書いてるんだよ。もし、そういう視点で今の朝鮮民族を書ける作家が現れたなら間違いなく韓国はノーベル賞を取れるはず。逆になに不自由ない今の日本人じゃ村上春樹みたいな空っぽの意味のない作品しかでてこない。

日本統治時代の全てを否定しながら実は今の自分たちがその礎の上にしか存在し得ないという現実、袂を分けたもう一つの自分たちの可能性である北朝鮮。韓国が戦後否定したものそして得たもの、逆に北朝鮮が失ったものそして残ったもの。この対比をまた韓国在住の韓国人と日本の在日韓国人、そしておなじく北朝鮮と日本にいる北朝鮮人とに写して4面的に語ればめちゃめちゃ奥が深い内容の小説になる。これが出来るのは他でもない、韓国により捏造された歴史を信じていないまともな韓国人だけだ。

以前他所でネットゲームの評論として書いたことがあるけど韓国は決して無能ではない。彼らのあまり自覚していない特に秀でた才能というのは、実は物事を単純化するのが極めてうまいという点。韓国製のネットゲームはこの才能を特に最高に発揮して成功した例。日本やアメリカやヨーロッパ各国がゲームを作るととにかくいろんな意味で凝りすぎる。しかし韓国の場合は商売としてそして客が一番重要と考える部分以外を恐ろしいくらい大胆にばっさりと切り捨てて極端に単純でコアなものを出してくる。それが良いものなのかは別として。

この単純化の手法はゲーム以外にも韓国製品に共通する特徴で、韓流ドラマなんかがその筆頭。今時の日本なら高校の文化祭の自主制作映画でも絶対やらないようなとてつもなく単純で古典的なストーリーをなんの恥じらいもなくこれでもかというくらい執拗に出してくる。これが逆に今の日本人にとっては意外すぎて新鮮だったし、高年齢層には戦後テレビが始まったころを思い起こさせむしろ懐かしく感じられた。この単純さこそが韓流が流行った理由だと思う。

この韓国の単純化の法則というのは恐らく決定的に日本人と異なる民族性と言ってよいもの。複雑な事象を自分にとって不必要と思える部分を全て切り落としてなんの疑問も持たない性格。これこそが彼らの本質なんだと思う。その基本原則を常に頭に置いて接すれば常日頃の彼らの超理論超展開は全て納得がいく。

例えばある議論において、ある時点で議論対象から外したものはそれ以降彼らにとって存在しないのと同じことになるのだ。だから決定的証拠の表示による論理の根幹証明の消滅とそれにより必要となる起点からの再検証いう日本人にとっては自然に受け入れられる論理が彼らには理解できない。彼らの自然な理論からすれば一度決まった仮定は絶対であり何が起ころうが全てはそれを基準に考えるべきだと主張する。つまり、誤解されることが多いが、こういった彼らのめちゃくちゃな思考は全てが悪意による詭弁だけではなく、単に彼らの生理的な論理手順に沿わないから受け入れられないという側面があるということ。なぜならそれは民族の血に染み込んだ単純化の原理に反するからだ。北朝鮮の体制などは正にこの単純化の究極の姿である。

しかし、こういった傾向は同時に彼らが文学作品のような繊細な創作には向かないということも意味するだろう。だが、それでもそれを覆す天才が現れる可能性はゼロではない。真実と虚構、理想と現実、自己嫌悪と自尊心、常にこういった相反する事象を抱きながら、それから目を背けて自身の存在価値を虚ろに求め続けている朝鮮民族の苦悶を見事に書ききることができる人物がやがて現れるかもしれない。


ところで、ご覧のように韓国人が口から泡吹きながら渇望しているノーベル文学賞だが、これははっきり言って全くろくな賞ではない。そもそも英語に翻訳した途端、文学作品はその価値を失う。英語という極めて特殊に単純化を目指して進化してきた言語の上で文学を語ることなど到底不可能。やるならフランス語ドイツ語ロシア語日本語のいずれかでやるべき。何故か?

一口に文学と言ってもいろいろあるわけだが、範囲を限定するための規定として仮に18世紀中盤あたりから20世紀初頭くらいまでの近代的な人間中心主義における心理描写に重きを置く創作作品群、主に小説と呼ばれる形態をこれとしよう。これに当てはまる作品の質と量の条件を満たすのはフランス、ドイツ、ロシアそして日本だけとなる。本質的には近代文学はスペインのドンキホーテに始まり、さらにその源泉はイタリアの神曲にある。しかしこの二カ国はその後が続かなかった。また日本は特に例外で他の三ヵ国がこの時期になってようやく記し始めたような深い心理描写内を11世紀初めの源氏物語ですでに完全に凌駕している。そもそも固有言語とその表記体系の成立も他の三ヶ国語より圧倒的に早い。それから、よく勘違いをしている人がいるがシェイクスピアは戯曲であって文学ではない。あれはあくまでエンターテイメント。第一形式も年代もちょっと古い。というわけで一般に今の時代に文学と言った場合はこの流れを汲むものを指すとしよう。

さらにこの賞はスウェーデンのアカデミーが審査するわけで、スウェーデン語といえば英語を面白いほど更に単純にしたような言語だ。それに文学をうんぬんできる文化と言えるようなものは彼の北の最果ての国にはない。したがってこの文学賞にはただただ政治的な臭いしかしない。

ノーベル賞のうち本来の目的でない各賞はすべて文学賞と同じように政治的なショーとしての意味以外を持たない。だから受賞するのは常に毒にも薬にもならないようなものばかりだ。川端の文章は美しいが内容は限りなく虚無でしかないし、大江の偽善は政治的に利用する以外なんの存在価値もない。つまり本当のことを書いてしまったらノーベル文学賞は取れない。なぜならもともとノーベル賞自体がいかに偽善を尤もらしく書ききった作品かを評価するものだからだ。たまに川端のように単に美しいものが選ばれたりするのは謎。


さて、言語面から見た朝鮮語についてだが、この動画はまさか大学の授業じゃないだろうな?こんな小学生みたいな知識しかない人が講師だったらひどく悲惨だ。日本語でも英語と比べてこんなに表現力が高いと自慢したがる人がよくいるがそれと同レベル。そもそも英語と比べるのが間違ってる。英語はそういう目的のためにある言語ではない。まず英語中心でものを考えるのをやめるべきだ。言語的に見れば英語はスタンダードではなく極めて特殊な言語でしかない。

そのうえで、朝鮮語でなぜノーベル文学賞が取れないのか、その理由だが、まず第一に朝鮮半島には独自の文学的な伝統がほとんど存在しない。わずかに残っているものもその多くが長らくいわゆる禁書扱いだったりした。つまり朝鮮にとって正式な言語というのはあくまで支配国である中国語と漢字であり、朝鮮語は厳しく使用を制限されてきた。それを使って公に何かを書けば殺される。この状態で文学が育つわけがない。

本当に朝鮮語による独自文学の可能性が生まれたのは日本による支配が始まり学校でハングルを教えるようになって以降のこと。そう、なんと日本はそれまで朝鮮王朝が禁止していたハングルの使用を可とし、しかも学校で教育したわけだ。したがって、朝鮮語による文学の試作はこの時点から始まったものであり、まだ百年程の歴史しかないわけだから、なんの成果もないことを恥じることはない。

そして重要なことだが現在の朝鮮民族と仏教文化以前の民族は多くの部分で別ものだということ。常日頃朝鮮人が我が民族の伝統と言って自慢しているのは実は別人の功績でしかない。

一方動画では、朝鮮語の特徴として音の複雑さについて話しているが、実はこれは事実。朝鮮語はかなり発音が複雑で繊細な言語であり、この点標準的な言語よりもはるかに発音が簡単な日本語や中国語とは異なる。日本語はともかく中国語の発音が簡単というと疑問を持つ人がいるかもしれないが、中国語で難しいのはトーンであり音そのものはむしろ日本語よりシンプル。

また、日本のかな文字と比べて朝鮮のハングルの成立時期が非常に遅いことを捉えて朝鮮文明の劣等を語ることがあるがそれは見当違い。日本語のように子音と母音を組み合わせても五十文字以下で済む言語とは異なり、朝鮮語で同じことをやれば300近いかなが必要になると言われている。実際にそういう試みも行われたようだが、文字が多すぎたのか定着しなかった。そもそも日本より先に仏教が伝わった朝鮮半島でサンスクリットを模倣した同じ発想のかな文字作成の試みがなかったはずがないだろう。こういった問題を解消して朝鮮語の発音をうまく簡潔に表記することに成功したのがハングルであり、これは高く評価されるべき発明。しかし残念なことにこの文字は支配階級により実質的に長らく封じられることになった。

ちなみに朝鮮語のような特に母音の発音が妙に微妙な言語というのは言語の境界線地域に生まれやすいようで、デンマーク語なども同様の傾向を持つ。ただし、母音の区別が多種で複雑なことイコール言語の音としての側面が豊かなことではないので注意。音の響きとしてみた場合はかえって汚く聞こえる。逆にいうとそういう言語は方言の共通語化が未発達で様々な音が残り、不必要に複雑なまま放置されてきただけだとも言える。

さて、朝鮮語の音が複雑なのはわかったが、それがすなわち言葉が豊かという意味にはならない。動画中で説明されている擬音などは明らかに日本語が世界最高峰の複雑な構造と用途を持っているし、度々朝鮮語話者から聞かれる人間関係を表す表現つまり尊敬語などの複雑さも圧倒的に日本語が上であり、まず間違いなく世界一である。また日本語と朝鮮語に共通する動詞の活用の特徴と複雑さについてだが、これはメジャーどころでさえ他にいくらでももっと複雑な言語が存在する。ようするにこういうことを言う人は自分の言語以外を知らなすぎるだけの話し。おそらくこの人は日本語を知らないのだろう。知っていればこういうことは言わない。

というわけで客観的に見ると発音面以外では朝鮮語は明らかに日本語よりも単純な言語なわけだが、それは彼らの思考形態から見ても疑問の余地がない。単純な言語の話者は単純な思考をする。例えば、日本人がしばらくアメリカで暮らして英語しか話さないでいると自分がどんどん単純になっていくのを強く感じ不安になる。逆にアメリカ人が日本に長く居すぎると精神病を発症しかねない。しかし単純なことは決して悪いことではない。シンプルな言葉は時により強く人の心を動かす。その好例が英語である。

例外として、世界で最も単純な言語の部類に入る中国語は、逆にその極まった単純性により言語と思考の純粋な分離を可能とした恐らく唯一の言語だ。だからこそ中国の古典の価値は世界中が認めるところであり、そしてそれはいかなる言語に翻訳されても意味を違えない。思考が言語に依存していないからだ。

朝鮮語の特性を語る時、これを複雑な言語だとするのは誤りだ。それは本来単純さを武器とすべきこの言語の長所をつぶしてしまうことになる。韓流ドラマを見ても明らかだが、朝鮮語はその表現が単純であればあるほど魅力を持つ言語だと思う。この点は英語と似ている。

日本語と朝鮮語の血縁関係については諸説あるが決定的なものはいまだ存在しない。この二つの言語はあまりにもよく似ている反面あまりにも違いすぎる。文法や慣用面では兄弟言語と言って差し支えないレベルだが、言語の根本を形成する基本単語が驚くほど一致しない。この言語の話者が相当に速く他方の言語を習得できるのは文法面で覚えるべき新しい観念の負担が少ないことと漢語を通して上位の語彙に共通する単語が大量に存在するからだ。いわゆる和製漢語の影響も大きい。しかし一度最下層の人間として最も基本になるような言葉を見ていくとそこには全く共通点を見出せなくなる。これはとてもとても興味深い現象。

例えば印欧語群では遥かかなたインド北部と北欧やイベリア半島の言語でさえ共通の基本語彙を大量に見出すことができる。数千年の時を隔ててもこういった基本的な言葉はわずかな変化だけで保存され続ける。この点において日本語と朝鮮語が同源であるとする説はかなり説得力が弱い。日本語と共通の基本語彙を持っていたであろうと言われるのは現代の朝鮮語ではなく高句麗語でありこれは既に死滅してしまったし資料があまりにも少ない。にもかかわらず、奈良が朝鮮語起源だとするような妄想的な朝鮮語起源説を主張する者が未だにいる。

和製漢語は別として、日本語と朝鮮語の類似性が日本支配以前と以後でどの程度違うのか、この点を詳しく分析した資料はないのだろうか。恐らく現代朝鮮語と日本語が似ている理由のかなりの部分は案外日本による統治による影響が大きいのではないかと私は考えている。

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