※「やはり稽古場に演出家が二人いるのはよくないから降りてください」と、▼▼さんが泣いて頭を下げるので、「俺が行くまで演出家なんていなかったじゃないですか」と言いたいのをグっと堪え、手を引く決心をしてこれを書いて送りました。

 

▼▼さんと■■君の誠意を受け止め、陰ながら何か力になれればと思い、先日の通し稽古の動画を見ながら、台本に気づいたことを書き込んでいました。少しでも参考になればと。

 

最低限のことを先に書いておきます。

 

(本番5日前なのに読めない漢字をすべて放置していた意味がわからないが、そこから教育している時間はない…)

★「郭遊び」は「くるわあそび」と読みます。「かくあそび」と言っています。

★「あい背き候者」は、「あいそむきそうろうもの」です。「あい(読めずにゴニョゴニョ)こうしゃ」と言っています。

★「張り子の虎」は「伯方の塩」と同じアクセント。

★四十両は「しじゅうりょう」、アクセントは「午前中」と同じ。「お兄さん」のアクセントの人がいます。あと「よんじゅうりょう」の人も。

★おそめが台に座るのだけはやはり芝居の嘘の範囲を超えています。江戸時代の遊郭に、あのような姿勢で座れる西洋式の椅子のようなものはありません。せめてそういうリアリティは大事にしてほしいと思います。

★仁義の場面の「てぬぐい」は、絶対に顔を拭いてから返したりしません。「形式上受け取ったことにして返す」ということが要諦なのであって、使用済みにして返すのは、ここでの儀式をすべて無意味にします。なお、てぬぐいはマイムではなく実物を使ったほうがいいと思います。どんなものかは古賀さんに聞いてください。

★鶴吉がお茶を置いたところと、以蔵が茶碗を手に取る位置が違います。この辺もついてはいけないウソです。

★「だべ」は上州弁ではありません。「だんべ」です。

★近藤が殴る場面、最初は一発だけにしてほしいです。二発目を食らうような以蔵ではありません。ここもキャラ崩壊です。一発目も、不意を突かれたから食らったのです。

★「上様がきやがった!」がピンと来てないんだと思いますが、昔の時代劇ではよく「殿の、おなーりー!」という掛け声とともに、殿様や何かのお出ましを丁重に迎える場面をよく見ました。それを、上様を軽んじた、ぞんざいな言葉にしたのです。

★人形を2体に増やしたのは、沖田役の子が戦隊モノに出ていたアイドルだったので、ファンサービスで出したのです(実際喜ばれました)。今回は亀吉を出す意味がありません。回収されない謎として、無駄を増やすだけなので無しにしたほうがいいです。

 

さて、あとは演出上のポイント、アンサンブルをまとめたり笑いの来る「間」を詰めたりするのはコピー以外間に合わせる手段がなかったので、それを捨てたいま有効なアドバイスだけ、「ここはもっとデフォルメで」とか、「ここで正面を向けば効果が出る」とか、「プロローグのたみの幻を追う演出を変えたから、エピローグのおきよの幻を追う場面とリンクが切れている」などなどのことを、細かく書きました。

 

これまでにも、演出する上で少しでも参考になればと、「韻文の殺陣と散文の殺陣」の話とか、「リアルな芝居の中に時折デフォルメを入れて緩急をつける、つまり細密な絵ばかりでは一本調子になるので時々抜いた絵を入れる」とか、「いまここ」と「ここじゃない場所」の約束を整理して決めておかないと見てるほうが混乱する、とか、いろいろな僕の手の内を明かしてきました。

もっと基本の「演出家は本質を伝えれば、枝葉末節はぜんぶ付いてくる」ということまで。

少しでも作品をよくしてもらいたい、また、今後の演出家としての糧にしてもらえればと思って。

 

そしてラストシーンになりました。

涙が出ました。

感動してではなく、あまりにも無念で。

台本に書いたダメ出しも、渡しても無駄なんだと思いました。

 

つかさんは、「人間何を恥と思うか」を一番大事にしていましたが、僕にもあります。

それは、「何を美しいと思い、何を醜いとするか」です。

 

以蔵はハッピーエンドではありません。

が、せめて美しく以蔵を死なせました。

それこそ「韻文の殺陣」を使って、「様式美」で締めくくりました。

 

今日お話ししましたが、僕は三島由紀夫の『豊饒の海』四部作がすごく好きで、これは本当に美しい物語で、初演版のラストは第四巻『天人五衰』の「無常」(三島はこれを書き上げた朝、自衛隊に行って自決しました──三島が最後に書き残した実感が「みんな夢の中」です)、2001年版は第一巻『春の雪』の「美」をイメージして演出しました。

 

それを、よってたかってのなぶり殺しのような、凄惨な殺人現場を最後に見せられて終わるラストになっていました。

あれでは以蔵の死体は、膾のように斬り刻まれて、全身の皮膚がめくれあがったとても醜怪なものになってしまいます。

ハッピーエンドでもなく、「美」でもない、ただおぞましく「醜い」だけのラスト。

 

「仇討ちのために人斬りになった以蔵が、立場が変わって自分が仇として討たれることになったのが2001年版のラストだ」と説明しましたが、以蔵は仇討ちをするとき、相手の苦痛を最小限にするため、一撃で、即死できるように殺しています。

日本には、切腹では即死できないから、無用な苦痛を与えないための「介錯」という文化があります。

フランス語にもクード・グラース(Coup de grâce)という言葉があります。「情けの一撃」「とどめ」と訳されますが、瀕死の人間や動物を、苦痛から解放するための処置のことです。

 

仇を討ちにきたにしても、あんな無慈悲な、むごたらしい殺し方をする文化は幕末の日本にはないし(戦国時代には鋸引きや釜茹でなどの残酷な刑罰がありましたが)、あれほど救いもなく後味の悪いラストシーンを、僕は演劇でも映画でも見せられたことがありません。

君たちはお客さんをどんな気持ちで帰そうとしたのですか。

 

ラストは僕の申し出により初演版のものに変えるのでしょうから(これもおそらく■■君の演出では到底「無常観」には収斂していかない、ただの殺人なのでしょうが)、少なくともこのなぶり殺しの絵図は最低避けられたのでしょうけど、事ここに及んでは、いかに「○をつける系」の僕でも、×をつけざるを得ません。

 

僕にはイデオロギーも宗教もありません。が、これはもっと本質的な、イデオロギーや宗教なんかこれに比べれば枝葉末節になるほど本質的な部分で、君たちとは初めから何も共有できなかったのだ、を痛感しました。

「数学」すら通用しなかったのだと思い知りました。

 

教養がないのも、教養がないうえに勉強する姿勢もないのもこの際言いません。

ただ、演劇をやるのなら、しかもつかこうへいの後継を標榜するのなら、何というか、やはり分からないかな、最低限の美的感覚というか、身体感覚というか、ああもう、つかさんが「バカには芝居は無理だ」と言っていた意味をちょっぴりでも考える神経ぐらいは持っていてほしい。

 

最後に。

このような思想に貫かれて作られた作品を、上演中止は現実的に無理だけれども、少なくとも作者として認めたとは思われたくありません。

そこまでの辱めを甘受するいわれはないと思います。

具体的には、パンフレットに僕の文章も写真も載せないでください。

できれば「吉崎宏人作」も削除してください。

お互いに不幸な作品になってしまったことが残念です。

 

2019/12/3 吉崎宏人