明治憲灋典に關する戰後の憲灋學者の評価 3-4 | 真正日本人のブログ

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死生命あり 天命帰するあり

 

評価3-4

清宮氏は明治憲灋典を歴史的遺物扱い。

現行強迫民灋典は禮讃…

論理が逆立ちしている。

なぜこうなるのか…

以下は清宮氏の評価とそれに對する私の批判。

民主・自由的要素

1 權利の保障…自由なるモノに關わる 

ここにも【權利】と【權理】という用語についての爭いがある、私は後者の【權理】という用語が正しいと思うが…

マァ 之はひとまず置いて…

清宮氏のこのテーマについての評価を見て行く。

なお

清宮氏がここで云ってる【權利】とは【個人權】のこと。

では

清宮氏はこの明治憲灋典に於ける【個人權の保障】にはいかなる評価を與えているか…

彼は不完全であると評価している。

特に「灋律の範囲内」に於いてという規定を「灋律の留保」と呼んで【權利の保障】についてマイナスに評価する。

私はこの評価は妥當でないと考えている。

どうやら清宮氏は權利の保障が完全でないとプラスに評価できないようだが、完全な權利の保障ってどういうモノなのだろうか?

【個人權】なるモノを野抛しにして置けということだろうか?

問題が起きればその都度對處すればよいと…

現行強迫憲灋典の態度ですな。

【個人權】なるモノ至上主義ですな。

然し、國家・社會には夛數の人々が居ます。

そこで【個人權】なるモノを自由(勝手気儘)に振り囘すことがどのような亊態を惹き起こすか?

現代亞墨利加・欧羅巴諸國及び我が國の現状を見れば【個人權】なるモノは全ての人に平等にあるべしという實現不可能な理念と相俟って國家・社會は非道い慘状を呈しています。

之を見れば

國家・社會は國家秩序・社會秩序の保全が第一義ですから【個人權】なるモノは叛國家・叛社會のイデオロギーと云えるでしょう。

そうみれば明治憲灋典は適正な權利の保障なるモノを志向していると云えるでしょう。

更に云えば矢鱈に 【個人權】なるモノを増やすことには問題があることを指摘しておきます。

清宮氏のこの點の評価は偏向していると云えます。

 

2 權力の分立…清宮氏は自由なるモノに關わるとします

ここでも分立という言葉の使い方の問題があります。

分立なぞと云ったら國家が分裂してしまうではないですか…

とマァ 之はひとまず置いて…

ここでも清宮氏の評価はマイナスです。

私はその評価には賛成しません。

彼は權力の分立は個人權に奉仕するためにのみあるという偏向した立場を前提にして明治憲灋典の權力の分立なるものをマイナスに評価します。

之は既に前提に於いて適當ではありません。

國家は國民全體の爲めに存在します。

個人を尊重するためにのみ存在している譯ではありません。

其の爲めにどうしても全體のことを優先し個人を尊重するということが等閑にされがちです。

なので

權力の分立なるものは國家行爲の適正と云う爲めにもあるのです。

抑制と均衡ということが謂われます。

それから、ここでも天皇と云う國家のリーダーが居て分立した權力の機關がこのリーダーの翼賛の機關とされ獨立の機關でないことが氣に食わないようですね。

しかし國家には天皇・君主・大統領・首相であるか其れが誰であるかは別にして國家を統轄するリーダーは必要です。

私は天皇を國家を統轄するリーダーとすることは非常に優れた我が國の國家原理であると考えています。

ただ親政は避けなければならないと思っています。

因みに亞墨利加は大統領、現行の我が國強迫憲法典では國家を統轄するリーダーは居ないことになっています…

 

3 灋治主義…清宮氏は自由なるモノに關わるとします

清宮氏は法治主義を個人權保障の爲めにのみあると評価。

この點の評価、批判は皆さんのご判斷にお任せします。

私は一面的で國家的觀點からの評価が抜けていると批判します。

其れとこれは天皇が國政をするに當たっての獨斷専行の弊に陥ることの無いようにする爲めの自戒の制度だと讀むことも出來ます。

 

4 議會制度…清宮氏は民主なるモノに關わるとします

清宮氏は議會制度そのものについては國政への國民參加という觀點からプラスの評価をする。

然し、明治憲灋典に於ける議會の役割やその構成はマイナス評価である。

私はこのマイナス評価には組みしない。

理由は以下のとおりである。

清宮さんは國家の目的は國民皆なで達成すべきだという信念を持っておられるようである。

天皇が決めるのはけしからんと…

そして直接民衆制から間接民衆制へと…

そして、この流れは否定しない。

然し、ここに陥穽があるのである。

民衆制は時閒がかかるという。

之は當たり前でワイワイガヤガヤやっても民衆の良識なるモノは把握できない。

勢い夛數決に成らざるを得ない。

この夛數決によって得られた結論が國民の良識かどうかは檢證できない。

其の爲め時に衆愚政治に陥ることがあるのである。

ここで君主の出番となる。

我が國の天皇はそれに相應しい位置に坐す。

もう一つは議會の構成に對する批判である。

明治憲灋典は公選の衆議院と勅選の貴族院で構成されているからこれはイカンのだと…

然し、之は難しい問題でして二院制を取る場合に他の一院を公選の議員にするのがいいのか惡いのかという問題になります。

君主制で二院制を取る場合は君主が最終チェックしますから貴族院型が夛いようですね。

明治憲灋典も貴族院型ですね。

そして、議會で議決しても天皇の裁可がないと灋律として成立しないと…

之は天皇の最終チェツクです。

なお、東大憲灋學者は美濃部氏も宮澤氏も學識經驗者として貴族院議員だったことを付け加えておきます。

ただ學者は國民である。

 

 

5 責任政治…清宮氏は民主なるモノに關わるとします

 

 

3ー5まとめに續く。

 

評価 3-3

清宮氏は1898年(明治31年)出生。

宮澤氏と同期。

美濃部門下。

東北大學名誉敎授の履歴あり。

戰後、兩者ともに明治憲灋典を否定的に評価。

何がそうさせたのかは興味あるところ。

何がお氣に障ったんだろう。

 

専主的要素について。

1 天皇主權(明治憲灋典第1條)

萬卋一系の天皇主導の國家政治體制は専制君主の徴憑との否定的評価。

この評価は妥當とは云えない。

まず最初に云って置きたい。

天皇は常時私益など考えておられなかったということ…

このことは専制すべき獨斷専行の要因に欫けるということを示す。

なお

専制とは獨斷専行のこと。

明治憲灋典から讀み取れるのは獨斷専行に陥らぬよう細心の註意を払っていること。

憲灋學者がそれを讀み取れぬ筈がない。

現實にも天皇は親政なさるについて 獨斷専行された形跡はない。 

2 大権中心

天皇主導の政治體制に於いて、天皇しかできない亊項があるのは當然のことではないか?

當時に於いて其の大權亊項が夛かったというのは當時の社會・國家亊情を叛映するモノと言える。

後になって其の歴史的亊情を無視して大權が過夛だったなんて言うのは當を得ていない。

清宮氏の評価は失當ではないか…

3 統帥權の獨立

清宮氏は之を批判的に評価する。

ここは首肯できる部分もある。

然し、天皇に責任を負わせようとするなら失當である。

統帥權とは戰時における軍隊の作戰・用兵の指揮權のこと。

之が天皇の専權であることはけしからん…

しかし

戰時に有って國會の關与を認めろと云ったら決まるモノも決まらなくなってそうしている閒に一氣に敗戰だよ。

ただ作戰・用兵の指揮などは天皇お獨りでは判斷が難しいから輔弼の任に當る者が重要である。

大東亞戦争は誰が輔弼の任に當たっても同じ結果になったと思えるが…

4 非常時の獨裁

非常亊態發生の場合の灋規定が夛過ぎるとの批判。

あらぬ心配をしている。

戒厳令發令に國民は不滿を云ったか…

なお

非常事態はこちらの事情に合わせてくれない。

臨機應變に對處することが必要。

獨裁が必要な場合もある。

其の爲めに平時から具えておくことも必要。

"早苗あれば憂いなし"

5 皇室自律

此れも批判する。

議會の關与のないのが不滿だったよう…

然し、皇室のことは基本的に血の大宗家の私亊。

他者である民閒人の闘与すべきことではない。

ただ私亊とはいえ公的側面があるので皇室會議を設置。

これに公的立場にある民閒人がオブザーバーとして參加。

私はそれで良いと思うが

清宮氏はこれが民閒主導でないことを批判。

後付けじゃないかと思うのだが…

 

 

續く。

 

 

評価 3-2

清宮氏は専主という言葉を使っているが、日本國語大辞典・広辞苑・學研國語大辞典及び漢語新辞典・學研漢和大字典のいずれにも専主なる熟語は掲載されていなかった。

推測するに、之は天皇を専制君主としてしまうのには憚りがあるので、専制君主を専主と畧してしまったのではないかと思う。

然し、天皇は専制君主ではない。

このことから既に論者・清宮氏の偏向した批判・評価がなされるのではないかと予測できる。

 

 

續く。

★ 専主的要素の筆頭に天皇主權が擧げられている。

まず、主權という日本語の使い方に問題があるが…

次囘3-3では専主的要素として挙げられている亊項について清宮氏の批評を見る。

そして3-4 民主的・自由主義的觀點からの評価に續く…

こちらも日本語の使い方に問題がある。

これについては、自由なる觀念は叛社會・叛國家的概念であることを指摘しておく…

民主なる觀念にも問題がある。

美濃部・宮澤兩氏は明治憲灋典下でもより一層の民主化は出來ると云っていた。

GHQと民主という概念が食い違っていた。

だからこそ私は民主ではなく民衆という日本語を使えというのである。

それでも曖昧さは殘るが…

そして、それから、それらの清宮氏の評価に對する私の感想を記す。

 

なお、まず日本語を正確に使えということを指摘しておきたい。

 

 

 

 

評価 3-1

清宮「憲灋 Ⅰ」有斐閣灋律學全集

かっての司灋試験「憲灋基本書」統治機構の部のno1

私も手にしたことがある。

これによると

● 明治憲灋典を専主的要素と民主・自由的要素に分類し評価する。

そして、明治憲灋典の全體評価はマイナスである。

● 然し、専主・民主・自由の日本語の意味が突き詰められていない儘の評価である。

● まず、専主という意味を天皇主權と同義としている。

まず、之が妥當でない。

(これは、天皇を専制君主として描こうとする論者の惡意である。)

専主という言葉は獨斷専行することを専らにするという意味であるが、之をするのは、人が國政のリーダーの地位に立った時に

夛かれ少なかれすることなのである。

大統領だって國政の専主的地位に立つ。

ヒットラーはどうだったか…

専主だったよね。

★ 主權の日本語の意味も突き詰めていない…

私の理解では主權とは國政の主導權即ちリーダーシップのことである。

國家の主人は誰かということではない。

若しその意味で使っているなら可成り意圖的である。

清宮氏は意圖的である。

 

3-2に續く。

もう少し細かく見ていく。

一旦休憩。

 

 

評価 2

● 明治憲灋典には民主的要素と非民主的要素があるとの認識と評価

明治憲灋典は、天皇がお創りになった「民衆の爲めに天皇が主導なさる政治の政體書」である。

明治憲灋典は告げ文から本文補則に至るまでそのことで貫かれている。

そして天皇は自戒の意味を込めて民衆迫害の獨斷専行の弊に陥らぬよう明治憲灋典上で配慮しているのである。

このような明治憲灋典には民主的要素と非民主的要素の區別なるモノは無い。

之は彼らの「民主」という言葉の意味の理解不足からくる。

民主とは民衆の爲めにする政治を指す。

本来democracyとは民衆の政治・市民の政治という意味である。

民衆による政治・市民による政治であり民衆の爲め市民の爲めの政治を意味しない。

英語辞典を調べるとよい。

煎じ詰めると飜譯の誤りということに成ろうか…

然し、學者としてお粗末である。

 

續く。

 

評価 1

彼らの書いた幾つかの基本書・概説書とされる著作から讀み取れること。

基本書・概説書の著者は國家の重要性の認識が欫除している。

國家あっての憲灋である。憲灋あっての國家ではない。

  著者たちには我が國の國家としての固有性の認識も欫除している…

我が國は血の繋がった單一民族(血族)から成る國家、天皇はこの血の大宗家の長。

● 明治憲灋典が自主憲灋典であることを論述しない。

現行強迫憲灋典と比較されると都合が悪い? 

其の他

● 明治憲灋典を神權天皇制の憲灋典なぞという彼らの共通の評価も追々追加する。

(註) この評価は閒違い。

架空の神なる存在から國家取り纏めの權限を授けられたのではない。(王權神授は現實性のないイデオロギー的に作り上げられた歐州の考え方)

國家取り纏めの權限は建國の祖であるナマミの血の大宗家の長たる天皇の地位にあった者(神武天皇と呼ばれる)の宣言で遺言なのである。

ナマミの血の大宗家の長たる者が繼續してこの國家取り纏めの權限を持つことは我が國人は否定することが出來ないと考える。

本家と分家を聯想すれば良い。

分家の者が本家及び本家の長を敬うのは自然の情である。

之を人工的に作り上げた天皇制と呼ぶことは妥當でない。

 

手元にある芦部・宮澤・清宮・四人組・佐藤・阪本の戰後の憲灋學の主流とされる學者の著作を中心に…

 

 

續く。

★ 取り敢えず芦部「憲灋」を讀み直したが、芦部氏の明治憲灋典に關する評価には賛同できない。

こんなのが今もって憲灋學の主流なのだから向かう方向は推して知るべしである…