iz-f の ほとんどヒトリゴト

iz-f の ほとんどヒトリゴト

「けいおん!」「たまこまーけっと」を中心に、大昔のアニメやマンガも少々。
 一部最近のも。
BABYMETALがかなり増えてるDEATH!

※記事の内容に関して具体性のある
  コメントのみリプライします。

※注意
 ここは純粋に趣味でやってるページです。これで利益を得ようとは考えていません。
 また、コメントを含め、そういった関連のお誘いには一切反応しませんのでご承知おき下さい。

Amebaでブログを始めよう!
その後、鑑賞回数が増えまして、9回観ました。



サウンドトラックも購入。

映画館では聴こえなかったノイズもよくわかります。

ピアノのハンマーや擦れる音とか。

葬儀のところで使われてる、アナログレコードのようなエフェクト。

ちゃんと、スクラッチノイズが左右で違います。





メイキングブックでも語られていましたが、「記号」ではないピアノの音がします。

これは、オーディオチェック用としても面白いかもしれません。

かなり、周波数が低い成分まで入ってますし。

もちろん映画を見た方なら、聴けばシーンが思い浮かぶのでお勧めです。

ラストの、学園祭のシーンの音楽なんかいいですよ。


あと、メイキングブックは、大変興味深く面白い内容。


取っ組み合いのシーンの、原画の枚数が異常。

たしかにこのシーンは、動きがすごかった。

硝子と将也。

お互いのもどかしさがぶつかり合う、気持ちの表現。

もう、思い出すだけで涙が出ます。


それから、スタッフインタビューを読んでると、山田監督の個性が随所に感じられます。

スタッフへの、指示の出し方一つにも。

言い回しというか、指示の表現が独特。

うーん、やっぱり感性の人だと思いました。

でも、ちゃんとそれを具現化して表現できる理性と知性も持ってる。


メイキングブック、いいですよ。

最初の20ページくらいは、画像付きであらすじ。

そのあと、各キャラクターの紹介と、CV担当へのインタビュー。

スタジオ紹介に、先ほどのスタッフインタビュー。

特に最後の方の、「監督×音響スタッフ座談会」は面白い。

こちらもおすすめです。




以下、内容に触れますので知りたくない方は見ないでください。




「類似」、「相似」、「対照」が、よく使われてる作品だなー、という印象。

それも、前半と後半でセットとなるような使われ方。

いくつかは、すでにこのブログでも書いたのですが、あらためて。

「類似」の例だと、永束君とドア。

 ・手話教室で、結絃に閉められそうになったドアを開ける。
 ・病院で、植野に閉められた病室のドアを開けようとする。
 ・学園祭のとき、将也にトイレのドアを開けさせる。

つまり、ドアを開けるのは永束君の役目なんですね。

もちろんこれは、物理的なドアの話だけではありません。

それから、永束君は

 ・将也が「友達の定義とか条件」を聞いたときに、手を握る。
 ・トイレから出てきた将也と手を握る。

この二つは、つながっていると感じました。

「友達」の答えを、手を握ることで、理屈じゃないと言った永束君への返しになってます。


手を握ると言えば、小学生の硝子が、池の前で将也の手を取って「友達」を示そうとするシーン。

ここは、終盤橋の上で、将也が硝子の手を取るシーンにつながってます。

これも、立場を入れ替えての返しですね。


あと、手話表現の「友達」が、手話を知らない永束君には、自然とできていたのがポイント。


「相似」の例だと、以前も書いた傘のシーン二つ。

結絃に傘を差しかける将也と、植野に傘を差しかける硝子。

あ、全然関係ないですけど、この病院シーンでの硝子は、かなりイイです。

なにか、覚悟を決めた気迫を感じさせます。

髪を、後ろにしばっただけのボサボサの状態で、オシャレとはほど遠い恰好ですが、表情に迫力があります。

ホントに芯は強い子なんだと。


他にも、繰り返しの表現は、花火や、手すりの振動、とかいろいろ。

もちろん「落ちる」についても。

橋から自殺しようとして、落ちなかった将也。

ベランダから飛び降りた硝子。

この時、将也が硝子の腕を掴むのは、川に落ちたノートを拾うために、橋から飛び降りた硝子を掴めなかったのが布石になってます。


全体にツクリに無駄がなく、構成が美しい。

非常に、繊細で、キレイな作品。

画がキレイなのもあるけど、ピシッとうまく組み合わされたパズルのピースのような美しさ。




10回目は、あるかな。

はやく円盤にならないかな。
 
 









 

「この世界の片隅に」を観てきました。

実は2回目です。

 

 

ネタバレというか、話の流れを書きますので、知りたくない人は見ないでね。

 

 

封切直後に、1回目を家人と観ました。

 

その家人のリクエストもあって、2回目の鑑賞。

 

一方、「映画 聲の形」は、その後7回目まで観てます。

 

こちらは、しばらくするとまた観たくなる映画なので、回数が増えました。

 

 

「片隅に」の方は、繰り返し観るのがちょっとツライ映画。

 

出来が悪いわけではなくて、むしろ出来がとても良いのでツライ。

 

作品のツクリ自体は、とても素直で、時系列も昭和8年から順に進みます。

 

「聲の形」は、出だしが高校生ではじまって、オープニングから小学生になり、小学生時代の後半も、ちょっと時間が前後するところ(将也がイジメられるようになるあたり)があるので、多少わかりにくいと感じるかもしれません。

 

「片隅に」は、主人公「すず」が子供のころから、年月が入って描かれるので、わかりやすい。

 

そして、その丁寧なエピソードの追い方もあって、「すず」の生い立ちや、人となりがよくわかり、自然と彼女の成長を見守っていく感覚となりました。

 

それだけにツライ。

 

初めて観たときは、先の展開を知らないので、ショックはありましたがまだよかった。

 

鑑賞2回目は、「すず」が、後半どうなるか、わかっていて観るのでとてもツライ。

 

観ているうちに、だんだん息が苦しくなってくるのを感じて、前半の戦中でも明るさを感じる日常との対比が非常に効果的なため、初回では笑えた部分が、素直に笑えなくなりました。

 

あそこまで絶望的ではありませんが、「火垂るの墓」に少し似てるかもしれません。

 

でも、「すず」はタフでした。

 

途中、非常に嘆き悲しむこともありますが、戦後、進駐軍の残飯スープを、義姉と一緒に飲んで「うまーい」というくらいタフです。

 

「泣いてばかりじゃもったいない、『塩分』が」と言って、笑い飛ばします。

 

もちろん、心中は様々な感情が渦巻いていただろうことは、容易にわかります。

 

文字通り、オープニングで使われた「悲しくてやりきれない」状況。

 

悲しくて、辛くて、しんどくても、人はメシを食って生きていくという現実。

 

それは、確かに物語の救いであり、希望なのですが・・・

 

 

 

絵柄的には、おそらく原作準拠と思われ、最近のアニメとしてはシンプルで、アニメ然としています。ジブリでいえば、高畑作品に近い感じです。(監督がジブリにいた方ですし)

 

でも、この作品、女性が妙に艶めかしい。

 

変な例えかもしれませんが、手塚作品の女性が、すごく単純な線なのに艶っぽく見えるのに似てる気がしました。

 

結果、「すず」の声を当ててる、のんさんの演技と合わせて、キャラクターの実在感が大変強い。

 

ホントに存在した人物かと思わせるほど。

 

だから余計ツライ。

 

とても良い作品なのは間違いなくて、一度は観ておきたいのは確かです。

 

ただ、複数回観るのは、私にはしんどかった。

 

 

 

 

PS:あ、それから、観た方ならわかると思いますが、「座敷童」のその後は、エンドロール後で描かれてますから、最後までスクリーンを観てた方がいいですよ。

 

 

 

 

昨日、5回目を観てきました。

 

もらった特典フィルム。

観覧車の中、硝子の手ですね。

 

 

以下、ネタバレあります。ご注意ください。

 

 

 

 さて、5回観ての雑感などですが、その前に訂正。

 

前回、結絃が撮ったコンテストの写真について書きましたが、時系列を勘違いしてました。

 

写真を応募したことを、結絃と将也が知ったのは、八重子(西宮母)の誕生日なので、花火大会より前でした。

 

ですから、この時の硝子は、まだ自殺願望があったわけですね。

 

だとすると、元々、死骸の写真よりも、「再生」に関心があったということなのかな。

 

もしくは、死体も残さずに消えたかったのか。

 

もちょっと、考えることにします。

 

 

 

改めて、5回目の話。

 

ホントに対照的というか、同じようでいて違うシーンが多い印象です。

 

例えば、信号が変わって、道路を横断するシーン。

 

オープニングで、将也たちと、植野と川井がすれ違います。

 

この時の植野と将也は、お互いを意識した反応です。

 

そして同じ場所。

高校生の将也が自転車で信号待ちしていると、植野が荷台に乗ってくるシーン。

 

結局、将也に「降りて」と言われて、降りた植野が信号が変わってから、自転車を追い越していきます。

 

植野と将也の、関係性の変化を感じました。

 

植野は、信号を渡った先にいた硝子を目指して走っていき、小学校のころのような悪ふざけを始めて、将也にたしなめられます。

 

このシーンは、いろいろ興味深い点がありました。

 

ここで硝子は、植野に補聴器をとられて、全く聞こえない状態です。

 

まぁ、補聴器があっても完全に聞こえるわけではないでしょうけど、この時の植野と将也の会話は、普段以上にわからない。

 

植野が去ってから、将也に会話の内容を尋ねますが、話せるようなことではないので、「何でもない」と返されてしまう。

 

で、次の日、硝子は髪をポニーテールにします。

 

明らかに、前日の植野に対する対抗心ですね。

 

そして、喋る。結絃に対しても、いつになくたくさん喋る。

 

橋の上で、将也にもたくさん喋る。

 

植野と対等に勝負しようと考えたのか、あえて「声」で思いを伝えようとする硝子。

 

だから、メールじゃダメなんですよ。この思いを伝えるには。

 

 

あと、ちょっと戻りますが、さっきの信号機のシーンの終わりに、盲人用信号機のカットが入ります。「ピポッピポッ」という、音とともに。

 

これが聞こえる将也と、ほとんど聞こえない硝子。

 

植野とのやり取りの象徴、または植野の存在を意味しているように感じました。

 

 

で、また戻って、橋の上の告白シーンですが、ここでも将也は自転車に乗ってます。

 

一旦、帰りかけた将也を、硝子は自転車の荷台をつかんで引き止めます。

 

声で止めるのが難しいにしても、結構強引ですね、一度降りてから、走って追い抜いた植野と比べると。

 

つまり、ここも対照的な表現になってます、硝子と植野の。

 

 

あと、対照的ではなくて、その役割を強調するように繰り返されたのが、永束とドア。

 

手話教室のドアの前で、入室を拒む結絃と将也の間に割って入って、結果的に硝子と将也が会えるようにした永束。

 

将也が入院する病室に入れてもらえない硝子にも、ドアを開けて入れるように頑張る永束。

 

この時は、植野の抵抗の方が強くて病室には入れませんでしたが、硝子と筆談により気持ちを聞き出してます。

 

そして、学園祭にきた将也が、自分のクラスに入れず、具合を悪くしてトイレに行った時も、そこから出られるきっかけになったのが永束。

 

永束が、将也を呼ぶ声でみんなが集まってきてます。

 

というように、永束はドアを開ける役目なんです。

 

もちろん、彼が開けるのが、物理的なドアのことだけではないことは、観た方ならわかると思います。

 

 

それから、まぁ、ちょっとコマカイところで、靴。

 

結絃の靴については前回書きましたが、山田監督は足による感情表現を得意としています。

そのため足元のカットが増えるので、いきおい靴もよく描かれます。

 

どんな靴を履いているか。

特に女性は、服装とのマッチングを考えて選ぶので、靴もその時の心情を表します。

 

気になったのは、遊園地での植野の靴。

 

結構、ヒールの高い靴を履いてます。

 

ヒールが高い靴を履くというのは、背を高く見せたい=見下されたくないという意思の表れかと思いました。ただ、普段着の時はそうでもないようですが。

 

一方硝子は、常にぺったんこの靴が多い印象です。

 

安全面もあるのかもしれませんが、あまり目立ちたくない、控えめにしたいという気持ちがあるのかも。

 

そんな硝子が、結構ちゃんとヒールのある靴を履いてるシーンがあります。

 

学園祭の時です。

 

ブラウンのショートブーツっぽいのを履いてます。

 

おしゃれもして、明るくなった印象を受けました。

 

実際、うつ向いて歩く将也の手を引っ張って歩くほど積極的になっています。

 

 

 

 

さて、植野についても、ちょっと。

 

作中、植野が硝子に向かって「あんたがいなければ、みんなうまくいってた」と言ってますが、

これは、植野にもそのまま当てはまります。

 

将也が硝子をいじめたきっかけは、仲間たちの硝子に対する反応を見てのことです。

特に植野の反応。

 

硝子が転校してきて、はじめのころの植野は硝子の世話を積極的にやってます。

 

しかし、だんだんそれが負担になってきて、合唱コンクールの練習あたりからは、明らかに不満を表に出すようになりました。

 

朗読の硝子に対する対応とか、手話の練習などの、硝子に対する特別扱いを感じる植野。

 

植野自身は、硝子を直接いじめてはいませんが、観覧車の中で疎ましく感じていたことを硝子に言ってます。

 

そして、この植野の様子をずっと気にしていた将也。

 

「もっとうまくやらねーと」と、硝子に忠告しますが、ちゃんと伝わらず、硝子の「友達」の手話は、将也に伝わりません。

 

仲間のためと思って硝子をいじめる将也。

 

植野が喜ぶと考えた将也。

 

もし、植野がいなかったら、多分、将也は硝子をいじめていません。

 

佐原が学校に来なくなることもなかったでしょう。

 

もちろん、植野1人が悪いわけではなくて、それぞれに問題があったし、小学生の植野にはどうしていいか、わからないことだったのでしょう。

 

ただ、彼女は高校生になっても、大きく変わっていませんでした。

 

例の信号機下での悪ふざけも小学生のころのままだし、「石田、ダサくなったわー」も、それは逆で、昔を反省して行動した将也に対して、成長していない自分を正当化するための一言でした。

 

もしかすると、観た人から植野の人気があるのは、このある意味子供っぽいほどのストレートさにあるのかもしれません。たしかに不器用です、生き方が正直すぎて。

 

うーん、でもやっぱり私は苦手です。植野のようなキャラは。

現実にいたら、一番厄介ですよ。

 

とりあえず、長くなったのでここまで。

 

 

昨日届きました。

 

 

残念ながら、上映会の方は参加できなかったのですが、まぁ、当日届くとは思ってなかったので、タイムラグ無く観られるから良かったかなと。

 

中箱

 

ディスク

 

上を開くと

見開きで、左側にセットリスト、右側にCD2枚とBD1枚。

 

CDの表面

魔法陣の紋様が浮き出た印刷がされています。

なかなか凝ってる。

 

写真集

ページ数を数えてみました。

72ページです。

なかなかのボリューム。

 

基本的に、進行に合わせた内容で、ウェンブリー・アリーナの外観から始まって、3人が退場するまで。

 

キャッチミーの影絵や、Amoreの羽を背負ったすぅさんの写真もあります。

 

当然ながら、ステージ上のみ。

 

もちろん悪くはないのですが、神バンドがピンで写ってるのもあると良かったかな。

 

そこは、BDの方だと、しっかり撮られてるので、そちらで観たほうがいいかも。

 

で、肝心のBDですが、現在一人上映会中。

 

実際のライブだと、見られないアングルが見られるのは興味深い。

 

横斜め上とかだと、3人のフォーメーションの具合がよく分かって。

 

そして、オーディエンスの様子。

 

当たり前ですが、殆どが日本人以外。

 

ものすごい人数のそれが熱狂している。

 

でも、いつもどおりのステージング。

 

うーん、プロだなー、という月並みな感想しか出てこない。

 

終盤の、日本のLV会場からの映像も映ると、熱いものが…

 

やー、これは劇場のスクリーンでみんなと観たかったかなー、と恨み節。

 

映像的にも3人のダンスがよく分かるし、カット割りも細かすぎないので見やすい感じです。(少しコントラストが強めの印象ですが、環境によるかも)
 

通常版は、だいぶお安いようですし、大変よく出来てますから、まだBABYMETALの映像ソフトをお持ちでない方は是非。(と宣伝)

 

最愛さんの笑顔もよく見えますよ、お客さん。

 

 

 

 

 

昨日、4回目を観てきました。

 

新たに上映を始めた映画館の初日だったので、スペシャルブックをもらえました。

 

 

 

映画公開にあわせた書下ろしの作品です。

 

中身は、もう一つの母娘、硝子と 結絃の母八重子と、その母、いととの話。

 

詳細は書きませんが、八重子がキツイ理由とか、彼女の本心が垣間見える内容でした。

 

 

 

以下、ネタバレあります。ご注意ください。

 

 

 

さて、4回目。

 

特段無いのですが、 結絃 が履いていた緑と黄色の靴。

 

この靴は、最初からずっと「出演」してたのですね。

 

元々は、将也が小学校時代に履いていた靴で、オープニングもこれでした。

 

そして、 結絃 が雨の中抜け出して、裸足で自宅に帰ろうとした時、後を追いかけてきた将也が渡した靴。

 

結絃 はその後、制服以外では、ずっとこの靴を履いていました。

 

嫌っていた、姉の敵とも言える人間からもらった靴を履き続けている、というのは、つまりそういうことですね。

 

ただ、山田監督は、それをことさら強調したり、説明することはありません。

 

 

それから、以前も触れましたが、 結絃がコンテストで受賞した写真。

 

この件、ちょっと補足します。

 

花が、鳥の形を囲む形で咲いている写真。

 

これの、元の状態と思われる写真も、出てきてます。

 

結絃が撮った、死骸ばかりの写真の中に、鳥の死骸があります。

 

受賞した写真は、この死骸本体は無くなっていて、ただし有ったことが偲ばれる形に花が咲いています。

 

「死」から「生」へを象徴しているように感じました。

 

または、生まれ変わることを示唆しているように。

 

そして、これを結絃が撮っていたということ。

 

なぜこれを撮ったのか?

 

死骸の写真ばかり撮っていた中で。

 

ただ、その光景が面白かっただけなのか?

 

いつ撮ったかが分かりませんので、なんとも言えませんが、もしこれが、祖母いとが亡くなった後なら、 結絃に意識の変化があったのかもしれません。

 

虫や、小動物の死を撮り続ける中で、本当の人の死を目の当たりにしての変化。

 

死にたがる姉へ、「死」を見せることで、死ぬのを防ぐ行いへの疑問。

 

明確な理由は、ちょっとわからないのですが、何かが生まれる、または「死」が「生」へ転換する、「再生」を意味してると受け取りました。

 

そして、コンテストに応募するのに、この写真を選んだのが硝子なのも重要ではないかと。

 

数ある写真の中から、ちゃんと見つけて選んだのは、何かを感じたからでしょう。

 

多分、死ぬことばかり考えていた頃の硝子がこれを選ぶとは思えず、生きることへの関心が出てきたからなんだろうな、と。

 

八重子(西宮母)も、それを見抜いてなのかは不明ですが、これが良いと思って応募してます。

 

まぁ、そんなところを含めて、とても象徴的だなと。

 

 

 

以前にも書きましたが、山田監督の作品は、場合によっては言葉足らずに感じることもあるでしょう。

 

でもそれは、説明調のセリフのためにキャラに必要以上に喋らせたり、ことさら不自然な強調をしないためです。

 

映像作品ですから、全ては映像の中に描かれています。

 

ですから、観る側も、きちんと観る必要があるわけです。

 

 

 

「聲の形」という、わりあい重い内容の作品を、山田尚子監督が手掛けたことを意外に感じた方もいたかと思います。

 

どうしても、これまでの監督作品、「映画けいおん!」「たまこラブストーリー」からのイメージだと、「明るいお話」、「ハッピーな物語」、「登場人物に悪い人はいない」という作品を作る人と思われていたのではないかと。

 

私も、「聲の形」の原作は知りませんでしたが、聞こえてくる概要から、決して明るいだけの話ではないらしいということで、うまくいくのかちょっと不安もありました。

 

結果としては、とても良い作品に仕上がっていました。そして、「聲の形」を観ていて、ちょっと似たテイストの話があったのを思い出したのです。

 

「たまこまーけっと」の第3話です。

 

「たまこまーけっと」自体は、表向き、もち屋の娘の楽しそうなお話ですが、裏テーマとして、「死」を意識したものとなっています。(今はいない母親の死が、時折、顔をのぞかせる)

 

で、それとは別に、非常に内向的な登場人物がいます。第3話で出てくる朝霧史織です。

 

この話数について、過去記事があります。

 

アバンタイトル

前半

後半

 

なぜ、この話を思い出したかというと、将也が鏡の前で、みんなにどう話かけるか練習しているシーンを見て、前にもあった気がしたから。

 

それが、「たまこまーけっと」の第3話でした。

 

史織が、鏡の前で、たまこにお礼をいうのを練習しているところです。(詳細は上の「後半」にあります)

 

あまりにも内向的で、練習しないと「ありがとう」が言えない少女、史織。

(個人的には、このシーンを含めてアニメ史に残る話数だと思ってます)

 

もちろん、将也がうまく話ができないのは別の問題ですが、実は「たまこまーけっと」の中で、こういったコミュニケーション関する話があったということです。

 

思いをうまく伝えられない。どう伝えればいいのか、伝え方がわからない。

 

「聲の形」にも共通するテーマだと思います。

 

「たまこまーけっと」は、原作がなくて、完全オリジナルのアニメですから、かなり山田尚子監督の意思が入っていると思われます。

 

だとすると、「聲の形」のような、コミュニケーションを題材とした作品を山田監督が担当するのは、むしろ適任だったのではないかと。

 

余談ですが、永束君役をこの話数にあてはめると、たまこがそのポジションになるのかな。その後の史織との関係は、親友と言っていいと思いますし。

 

 

「たまこまーけっと」くらい、過小評価されてる作品もないのではないかと思います。

 

「聲の形」にもつながる、山田監督の演出や撮影技法がふんだんに用いられてるので、興味のある方におススメします。(当ブログでも、一応全話記事にしてますが、大分本題から外れてますので)

 

 

 

 

 

 

 

 

また観てきました。3回目です。
 
これはもらった特典フィルム。

 
 
 
 
以下は、ネタバレになるかもなので、映画未見の方は見ない方が。
 
 
 
 
 
 
 
3度観ての、とりとめのない雑感など。
 
 
やはり、よくできた作品だと思います。
 
出だしと、終盤の花火の対比とか。

硝子が将也のことを手すりの振動で気づくのと、橋の欄干の振動で気づくのとか。
 
永束君と手を握り合うのも、初めと終わりの2か所ありましたね。
 
まぁ、この辺の考察は、どこかでやってる人がいるでしょう、きっと(テキトー
 
 
それと、表情がいいですね。
 
手話教室で、とても久しぶりに会った、将也に対する硝子の表情。
 
困ったような、怒ったような、うれしいような。
 
結局、どんな顔していいか、わからなくなって。
 
これと、ちょっと似た感じが、終盤の橋の上でも見られました。
 
病院を抜け出した将也と会った時。
 
信じられなくて、驚いて、うれしくて。
 
それと仕草。思わず、自分が夢か幻を見てると思って将也をつついて。
 
ベッドでの足パタパタも面白かった。
 
もちろん、「ちゅ、き!」の、スカートをつかむところなんかは、もうね。
 
あとは、みなさん感じた通り、硝子の「声」
 
もう、単純に、声優ってすごいと思いました。
 
ちゃんと、後半になるほど硝子の喋り方が上手になっていきます。
 
 
 
マリアは、コミュニケーションの達人なのかな。
 
結絃も、マリアに差し出されたら食べちゃいます。
 
誰とでも、同じように話せる、コミュニケーションの象徴。
 
でもね、みんな、マリアみたいな頃があったのかもしれない。
 
いつしか、変わってしまった。
 
 
 
西宮母は、キツイ感じだけど仕方ないよね。
 
上の子は耳が聞こえず、下の子は不登校。
 
多分、結絃の不登校の原因は、姉のことを学校で言われたりしたせいかな。
 
リアルでこんな状況なら、あのくらい気が強くなければ折れてしまう。
 
それだけに、植野が終盤ケンカしながら、西宮母に言った言葉は許しがたい。
 
ただ、植野自身の生い立ちも、ちょっと特殊な気がして(花火を見るカットから推察)
もしかして、あれは自身の親に向けたものだったのか?
 
 
結絃が賞をとった写真。
 
鳥を囲むような形に、花が咲いてる。
 
応募の経緯を含めて、象徴的。
 
 
ホントにとりとめのない記事になりました。
 
そういえば、上映劇場が増えるようです。
 
映画『聲の形』、興収21億円突破で「まどマギ」超え 上映劇場の追加も決定
 
富谷の109シネマズもあるな。どーしよ。
 

2回観て、ちょっと気づいたことです。

大したことではありません。

 

 

 

 

 

あ、ネタバレがあるので、気になる方は見ないでください。

 

 

 

 

 

手話教室と病室のシーンについて。

 

将也が硝子を訪ねて、再び手話教室に行った時の事。

 

教室の入り口で、硝子を呼んでもらおうとすると、 結絃に

「西宮硝子はいません」

と、拒否され、入室するのも拒まれます。

 

これと、終盤の将也が入院している病室のシーン。

 

見舞いに訪れた硝子を、植野が頑として入れまいとします。

 

似てますね、二つのシーンが。

 

結絃は、姉・硝子を守るために将也を近づけず、植野もまた硝子を将也に近づけません。

 

それから、傘のシーンが二つ。

 

どちらも同じように、地面に当たる雨の音が、途中で傘に当たる音に変わります。

 

一つは、雨の中を歩く 結絃に傘をかけてあげる将也。

 

もう一つは、雨の中を歩く植野に傘をかけてあげる硝子。

 

似てますね、二つのシーンが。

 

山田監督は、こういう似たようなシチュエーションで、人物を替えて繰り返す表現を好んでるように思われます。

 

そして、ここからわかるのは、 結絃と植野は、将也、硝子に対して、似たポジションにあるということ。

 

結絃は、姉・硝子を守りたい&将也のことは、当初は嫌いで、のちに和解。

 

植野は、将也が好きだから、硝子を近づけたくない。当然、硝子のことは嫌い。

 

ところが、傘を差しのべてくれたのは、その嫌いな相手。

 

結果として、植野も最後は、硝子とそんなに悪くない感じになります。

(「バーカ」の手話シーン)

 

結絃が、将也と打ち解けるきっかけとなったのも傘の件ではないかと。

 

 

つまり、将也と硝子も似てるんです。

 

嫌われてる相手に対しても、ちゃんと関わっていこうとした点で。

 

そういう行動の象徴として、傘のシーンがあるのだと思いました。

 

この二つのシーンの雨の音は、とても似た変化をするので、観る方は気を付けてみてください。

 

 

それから「君に生きるのを手伝ってほしい」というセリフ。

 

これは、自殺志願者だった二人にとって、お互いが死なないための絶妙な表現ですね。

 

「君に生きてほしい」では、ダメなんです。

 

言われた方は、「では、何のために?」となっちゃいます。

 

生きる目的がないんです、これでは。

 

「死にたい」というより、「生きたくない」んです、こういう人は。

(この違いが分かる人は、そういう思いをしたことがある人です)

 

「生きる必要性」が、いるのです。

 

だから「生きるのを手伝ってほしい」と言われたら、それが生きる目的になります。

 

自分がいなければ、相手が死んでしまうことになりますから。

 

一方、言った側も、生きるのを手伝ってもらうのですから死ねません。

 

これを「共依存の一種」と片付けるのは簡単ですが、生死の境目までいった二人の、極限で発せられた言葉だとすれば、これ以上のセリフは無い気がします。

 

 

2回目を観てきました。

 

 

この作品、最低2回は見る必要があると感じました。

 

イヤ、私がニブイだけで、もっと感受性が鋭い方なら一度でいいのでしょうけど。

 

相変わらずの山田監督的表現が多いので。

 

つまり、直接的表現や、具体的な説明調のセリフを極力排したツクリのこと。

 

 

 

 

 

 

以下、内容に触れますので、未見の方は見ない方がいいかもです。

 

 

 

 

 

 

 

 

例えば、池に飛び込んだホントの理由とか。

 

例えば、ピアスで耳たぶがちぎれるところとか。

 

例えば、医師から右耳はもう聞こえないといわれるとか。

 

 

 

ちゃんと観てれば、状況は描写されてるので流れからわかりますが、説明はありません。

 

そういうツクリの作品です。

 

 

え、ツクリの話ばかりでなく、内容の感想を書けって?

 

大変書きにくい。

 

言語化しにくい。

 

単純に善悪の問題ではなくて、そうなってしまったのだろうな、と。

 

それぞれのキャラクターが、人間のいろんな側面を映しているかのよう。

 

だから、観てると思い当たる部分があって。

 

植野のように、強い口調で責めてしまったり、佐原のように逃げてしまったり、川井のような無自覚の悪意であったり。

 

観る人によって、共感できるキャラ、イヤなキャラ。

それぞれの登場人物に対して、肯定的だったり、否定的だったりするんじゃないかと思います。

 

でも、多分、どのキャラも自分の中にいる。

 

それを、表に引っぱり出して見せられてるように感じました。

 

みんなどこか欠けている。

 

それは機能的にだったり、精神的にだったり。

 

だからうまく伝わらない。

 

え、抽象的すぎる、もっと具体的に書け?

 

うーん、具体的に書いてしまうと、せっかくの作品のツクリをぶち壊す気がするんですよね。

 

いろいろと考えながらも「感じる」作品だなと思うので。

 

もうちょっと落ち着いたら、またなんか書くかもですが。

 

 

 

 

 

 

 

前売り券も買ってあったのですが、ようやく公開から一か月以上過ぎて、観てきました。

 

 

観終わって、しばらく放心状態というか、とにかく、「すごいものを観た」という印象です。

 

 

なんというか、「壮絶に繊細」な映画です。

 

よくこんな作品が作れるものだと。

 

観てる間、あまりの情報量の多さに、呼吸が止まるかと思いました。

 

前にも書いたと思いますが、実写の映画と違って、アニメのキャラは勝手に動きません。

 

全て指示通り、描かれた通りにしか表現されないわけです。

 

だから、瞬き一つ、手先の動き一つが、すべて指示通り描かれたものですから、それらは何らかの意味を持ちます。

 

山田監督の作品は、すべてそうなのですが、特にこの作品の表現の細やかさは凄まじい。

 

動きだけではなくて、カットの合間に挟まれる「鯉」や「蝶」といった一瞬の映像も意味を持ってるわけです。

 

だから、それらの表現を余すところなく受け止めようとすると、その情報量がとんでもなく多くて、呼吸困難になりそうです。

 

もちろん、そんなこと考えずに、なんとなく「動きが自然だなー」くらいに観てていいのですが。

 

 

 

 

 

 

以下、多少のネタバレを含みますので、未見の方は読まない方がいいかもです。

 

 

 

 

 

 

出だしは、将也が自殺を図るくだりが、断片的なカットで。

 

小学校時代は、割合淡々と進みます。

 

内容自体は結構キツイのですが、それをあまり強調することなく、記録映像のように「こんなこともありました」といった風の、すこし客観的な表現です。

 

たとえば、補聴器代の受け渡しなんかも、ロングショットで事実を伝えるだけで、あまりその時の感情を見せたりしません。

 

そして、モノローグが一切ありません、小学校時代は。

 

これは、この部分があくまで過去の出来事で、高校時代の展開に備えた「資料」としての扱いのように感じました。

 

逆に、高校時代に入ってからは、将也の一人称によるモノローグがとても多くなります。

 

主人公の彼が、思っていることの大半を観ている側に「伝える」ように。

 

ところが、彼の周囲の人間にはこれが伝わりません。というか、うまく伝えられません。

 

観ている側には、この彼の思いと周囲のギャップから、伝えることの難しさや、伝えられないもどかしさが"伝わり"ます。

 

そして、もっともモノローグを必要とするのに、モノローグの無い人物がいます。

 

硝子です。

 

こういった、耳が聞こえない(うまく喋れない)キャラクターについては、いわゆる「心の声」として、モノローグを多用するのが一般的です。

 

しかし、硝子にはモノローグがありません。

 

彼女から、意思を伝える手段は、手話、筆談、メール等になります。

 

映画を観ているこちらも、それらと彼女の表情や仕草、行動から、何を思い、考えているかを読み取らなければいけないのです。

 

前述の内容に戻りますが、実写の俳優なら、こういったことは演技として考えて、動きに気を配ればすみますが、これはアニメです。すべて、描かなければいけないのです。

 

そのため、彼女の表情や仕草は、恐ろしく細かく描写されています。

 

モノローグがあれば、彼女の思いを観客が知ることは簡単です。直接説明されるのですから。

 

つまりこの作品は、モノローグが無いことで、思いを「伝える」「伝わる」の難しさを、観客も一緒になって体験する、一種のメタ構造と言えるかもしれません。

 

もし、またご覧になる方がいましたら、その辺に気を付けて観るとよいかと思います。

 

 

 

こう書くとまたアレなのですが、感じたのは、これを男性監督が作るのはムリではないかと。

 

この理屈じゃないところを、うまく感性で拾って表現できるのは女性監督ならでは。

 

ただし、感性だけに走ると、自己満足な作品になりがちです。

 

そういった点でこの作品は、感性と理性と、それを表現する知性が、高レベルでバランスしてます。