最後の蘭商 その3
紫色の春蘭、ぜったい欲しい!
人生で初めて出会った、紫色の春蘭!
でも、お金が絶対足りない!
鉢を両手で、大切な捧げ物を持つかのように持って、呆然と立ち尽くす私。
急いで家に帰っても、千円は絶対無い。
かといって、絶対お小遣いをくれる様な両親でもない。
オヤジ、むしろ土、嫌いだし。
朝起きたら、私の小品盆栽が全部、家の前の川の中に、並べて放り込んであったくらいだし。
絶望的状況に、うーんとうなりながら「紫」とだけ書かれたラベルをにらみ、立ち尽くしているだけの私。
そのおじさんは酒くさい小声で、いかにも周りを気にするかのように、まるでナイショ話をするかのごとく、静かにささやきかけてきた。
「その春蘭さぁ〜、もしかしたら天紫晃かもしれないのよ。」
「天紫晃が咲いたら、値段上げないとね〜。」
私みたいな素人でも、紫花の名花の名前は知っていた。
春蘭本は、もちろん手元に無かった。
園芸店での古い雑誌の立ち読みばかりで、ちょろっと得た知識だから、相場はまったく分からない。
分からないけど、おじさんの口ぶりでは、かなり高くなりそうだ。
高くなったら、もう絶対にこの春蘭は買えない。
でも、もしかしたら、名花の天紫晃が、自分の所に来るかもしれない!
わずかな希望と、大部分の絶望のはざまで、私はクラクラしながら立ち尽くしていた。
立ち尽くした自分の前で、おじさんは唐突にクルッと背を向けると、「考えといてねー」とでも言わんばかりに、ワンカップを持ってない方の手をヒラヒラさせながら、他のお客さんの所に行ってしまった。
私は静かに、きわめてていねいに、その春蘭の黒楽鉢を、黒松と五葉松の間のもともと有った棚板に、注意深くそっと戻した。
以下続編へ