「   チェスの駒がこうあって
チェスはいろいろな
ルールに従って成り立ってる

ある人が
チェスのこの
一つの駒の上に
白い紙で冠👑をかぶせる

これは
このチェスのルール(娑婆世界)とは
何の関係もないけど
私にとっては
特別な意味があるんだ

というふうに言うわけです

チェスというのは
この世(娑婆世界)のあり方の
全てを表しているんです

チェス・ゲームは
最初からあるんです
チェスゲームは
客観的に最初からあるんだ

けれど
余計なものがが一つある
余計なものとは冠👑ですね

ある意味では
これがなければ
何もないのと同じわけです

内容には関与せず
ただ存在だけ
付け加えている

と言ってもいい

これはこのゲームの中には
存在できないんだけど
別の意味ではこれこそ全て

全てという意味は
それが内容的に
全てを作り出している

という意味ではなくて

これがなければ
何もないのと同じという意味
ただ存在を与えていると
いう意味です
(永井均先生の著書より参照)

全ての主体に
(AさんBさんCさん・・・)
ちゃんと意識があるのに
同じ構造の肉体を持っているのに

1人だけ他と違う
これしかない👑(存在)をかぶった私がいる
👑がなければ何も無いのと同じ

私が私であって他の人じゃない
私は決して他の人にはなれない
痛みは私にしか感じられない
生まれて来たときも、死んで行く時も1人

なぜ?
私は1人しかいない

私は自分を1/一切と勘違いしていた
自分が1人しかいないのだから死ねば無となるのは当然
無になる死の恐怖は当然ある

では何が違うのか?
世界観です
1/一切をこの世界の中でと考えるか(生存・形)
1/一切をこの世界の外👑から私という肉体を通した存在と考えるか(存在・形がない)

1人しかいない👑無しの私
(形がある)
1人しかいない👑を被った私
(形があるが同時に世界の外にいる、形がない私)

世界観の違い

自分の構造
世界の構造


(□の枠の外が真実の私・形のない私、□の枠の中が形ある私)