今も続く迷走
ただし、大手の接待はこんなものではない、という。
「大手メーカーと昵懇になった先生が急にクルマを買い替えることはザラで、一戸建の大きな家や別荘を突然建てる人もゴマンといました」
圧巻はパーティである。
「大手がよく使う手は『新薬試験中間発表会』などと称して、帝国ホテルやニューオータニで200~300人を集めてパーティを行うのです。しかし研究発表も立食パーティも形式だけ。肝心なのはその後。全員に帰りハイヤーを用意しますが、その際に車代を渡します。金額は少ないひとで10万円、多いひとだと数百万円は渡していましたね。うちも同じようなパーティを開催したことはありますが、ある先生から“やはり大手とは違うな”と厭味を言われたことがありました」
高級官僚の天下りポストも、大手はしっかり用意していた。 「ピシバニールを製造・販売していた中外製薬は昭和54年、厚生省の坂元貞一郎事務次官を副社長に迎えています。坂元副社長は、薬事審の委員の前で“おれの目の黒いうちは絶対に丸山ワクチンは認可させない”と言っていました」
一方、ゼリアの社内は、丸山ワクチンがなかなか認可されない現状を「山村先生と丸山先生は同じ研究をしているので、ライバル関係だから仕方がない」と考えていたと言うが、そのうち、こんな噂が飛び交い始めた。先の元幹部が明かす。
「山村先生が丸山ワクチンに対してあまりに酷いことを言うので、うちにも何か恨みでもあるのでは、とみんなで疑心暗鬼になっていったのです。当時、社内では“ある社員が山村先生の娘さんと婚約している”という噂がまことしやかに流れました。そんなコネがあるのなら何とかしよう、とみんなで該当者を探したが見つからない。そうこうしていると、今度は“その婚約は破談になったので、山村は丸山ワクチンばかりかゼリアも憎いのだ”と話が変わってきたのです。そこまでくると、我々もバカらしくなって、何もしませんでしたが」
他メーカーの、なりふりかまわぬ実弾攻撃に比べれば、なんとも呑気な話ではある。生真面目で誠実な医師の丸山と、融通の利かない弱小メーカーが組んだところに、丸山ワクチンの不運があった。
加えて、丸山の周囲にも、“宝の山”の匂いを嗅ぎ付けて、欲の皮の突っ張った人間たちがうごめくようになる。丸山と付き合いのあった大学教授が、こんな話を披露する。
「丸山ワクチンの製造は、丸山先生の取り巻きの人間たちによって、実に多くの製薬会社に持ち込まれているんです。第一製薬とか協和発酵、大鵬薬品にも行っている。大鵬薬品は乗り気になって“共同開発にするから、データを出してください”と伝えたら“1億円出せ”と言われたそうです。もちろん、丸山先生はお金のことなんか頭にない人でしたから、ご存じないですよ」
ひたすら、ガン患者のために、と孤軍奮闘した丸山は「認可を見るまでは死ぬわけにはいかない」と執念を燃やし続けたが、平成4年3月、90歳で亡くなった。
その9ヵ月前の平成3年6月、丸山ワクチンを濃縮した『アンサー20』が認可されている。しかし抗ガン剤ではなく、放射線治療の白血球減少抑制剤としての認可だった。「親父はもう寝たきりだったけど、“うーん……”と言ったきりで、うれしそうじゃなかったな。あくまでも抗ガン剤としての認可を待ち望んでいただけに、不本意だったのでしょう」(長男の丸山茂雄)
アンサー20の認可で医学界の偏見はかなり軽減したとも言われるが、主流派による妨害は相変わらず続いている。
東京・丸の内で丸山ワクチンのシンポジウムが開催されたのは平成11年12月のことだった。患者家族の会の事務局長、南木雅子は準備段階でこんな体験をしている。
「主催を承諾してくれた産経新聞社に、癌研究会の理事が直接乗り込んで“丸山に関わるシンポジウムを主催するなら、今後、癌に関する取材協力は一切しない”と言ってきたのです。産経新聞は、広告やチケットを刷り終えていたにもかかわらず、慌てて主催を降りてしまいました」
丸山ワクチン迷走の終着点は、未だ見えていない。(了)
ただし、大手の接待はこんなものではない、という。
「大手メーカーと昵懇になった先生が急にクルマを買い替えることはザラで、一戸建の大きな家や別荘を突然建てる人もゴマンといました」
圧巻はパーティである。
「大手がよく使う手は『新薬試験中間発表会』などと称して、帝国ホテルやニューオータニで200~300人を集めてパーティを行うのです。しかし研究発表も立食パーティも形式だけ。肝心なのはその後。全員に帰りハイヤーを用意しますが、その際に車代を渡します。金額は少ないひとで10万円、多いひとだと数百万円は渡していましたね。うちも同じようなパーティを開催したことはありますが、ある先生から“やはり大手とは違うな”と厭味を言われたことがありました」
高級官僚の天下りポストも、大手はしっかり用意していた。 「ピシバニールを製造・販売していた中外製薬は昭和54年、厚生省の坂元貞一郎事務次官を副社長に迎えています。坂元副社長は、薬事審の委員の前で“おれの目の黒いうちは絶対に丸山ワクチンは認可させない”と言っていました」
一方、ゼリアの社内は、丸山ワクチンがなかなか認可されない現状を「山村先生と丸山先生は同じ研究をしているので、ライバル関係だから仕方がない」と考えていたと言うが、そのうち、こんな噂が飛び交い始めた。先の元幹部が明かす。
「山村先生が丸山ワクチンに対してあまりに酷いことを言うので、うちにも何か恨みでもあるのでは、とみんなで疑心暗鬼になっていったのです。当時、社内では“ある社員が山村先生の娘さんと婚約している”という噂がまことしやかに流れました。そんなコネがあるのなら何とかしよう、とみんなで該当者を探したが見つからない。そうこうしていると、今度は“その婚約は破談になったので、山村は丸山ワクチンばかりかゼリアも憎いのだ”と話が変わってきたのです。そこまでくると、我々もバカらしくなって、何もしませんでしたが」
他メーカーの、なりふりかまわぬ実弾攻撃に比べれば、なんとも呑気な話ではある。生真面目で誠実な医師の丸山と、融通の利かない弱小メーカーが組んだところに、丸山ワクチンの不運があった。
加えて、丸山の周囲にも、“宝の山”の匂いを嗅ぎ付けて、欲の皮の突っ張った人間たちがうごめくようになる。丸山と付き合いのあった大学教授が、こんな話を披露する。
「丸山ワクチンの製造は、丸山先生の取り巻きの人間たちによって、実に多くの製薬会社に持ち込まれているんです。第一製薬とか協和発酵、大鵬薬品にも行っている。大鵬薬品は乗り気になって“共同開発にするから、データを出してください”と伝えたら“1億円出せ”と言われたそうです。もちろん、丸山先生はお金のことなんか頭にない人でしたから、ご存じないですよ」
ひたすら、ガン患者のために、と孤軍奮闘した丸山は「認可を見るまでは死ぬわけにはいかない」と執念を燃やし続けたが、平成4年3月、90歳で亡くなった。
その9ヵ月前の平成3年6月、丸山ワクチンを濃縮した『アンサー20』が認可されている。しかし抗ガン剤ではなく、放射線治療の白血球減少抑制剤としての認可だった。「親父はもう寝たきりだったけど、“うーん……”と言ったきりで、うれしそうじゃなかったな。あくまでも抗ガン剤としての認可を待ち望んでいただけに、不本意だったのでしょう」(長男の丸山茂雄)
アンサー20の認可で医学界の偏見はかなり軽減したとも言われるが、主流派による妨害は相変わらず続いている。
東京・丸の内で丸山ワクチンのシンポジウムが開催されたのは平成11年12月のことだった。患者家族の会の事務局長、南木雅子は準備段階でこんな体験をしている。
「主催を承諾してくれた産経新聞社に、癌研究会の理事が直接乗り込んで“丸山に関わるシンポジウムを主催するなら、今後、癌に関する取材協力は一切しない”と言ってきたのです。産経新聞は、広告やチケットを刷り終えていたにもかかわらず、慌てて主催を降りてしまいました」
丸山ワクチン迷走の終着点は、未だ見えていない。(了)
