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 これらの、複雑な癌細胞を、直接叩かない丸山ワクチンは、これから、どんな癌細胞が現れても、気にすることなく使えるだろうし、効果を見ることが出来るに違いない。

 丸山博士は、ご自分で考えられたかどうかは知らないが、丸山ワクチンの行き方は、古来の漢方医学の流れであるようだ。
 一方多くの制癌剤は、癌細胞そのものを叩くことを目的にしていることから、文字通りの西洋医学ともいえるようだ。
 そして、欧米から輸入され、あるいは日本に生まれた、西洋医学的な、西洋薬学的な制癌剤は、何れもはっきりした効果が見られなかった。
 両者を優劣で比較する愚は避けたいが、たまたま結果として、ここに至った丸山ワクチンには、癌とは直接には関係なく、体力増強剤として、もう一度注目すべき価値があるようにも考えられる。

 最近の西洋医学では、抗癌剤の顕著な効果が見られないこともあって、癌の治療に、遺伝子操作が注目されるようになって来た。しかし、未だに謎の多い遺伝子を、謎を解かないままに操作して、癌細胞のような、異常な、しかも有害な遺伝子が、人間の中で増殖し続けたとしたら、信じられない奇形の人間が現れて、とてつもない悲劇を生むかも知れないし、これが蔓延したら、人類の滅亡につながることにもなるだろう。
 はじめに遺伝子を解読し、メカニズムを解明して、完全に理解し、幾百度、幾千度の実験を繰り返して、それから実用に供されるべきなのに、人間全体の遺伝子解読も出来ていない現在では、遙かに遠い夢でしかあるまい。

 この恐怖は、戦争に勝つためにと、遮二無二開発して多くの人命を奪い、これにも懲りず、今度は平和利用という一部の者達の言葉に騙されて、核や放射能の謎を解かないままに、安易に使い、2度もの失敗を重ねてしまった原子力の恐怖に、勝るとも劣らない、恐ろしい結果を招くことにもなるかも知れない。
 成功に、失敗はつきものとの理屈を、技術に素朴に当てはめて、多くの人命を奪って来たのが、先進的、文化的という考え方であったからだ。

 昨日も今日も癌にかかり、苦しみながら亡くなって行く人達が多いのに、認可に関係した人達は、一体何を考えていたのだろうか。

 「私生児『丸山ワクチン』の十七年」からも引用しよう。

「 ……
「中山教授から矢のような催促なんですよ。何とか三十人分ぐらい渡したらどうですか」
 丸山教授はいつものおだやかな調子で答えた。
「そんなに多くは一度には出来ないんだよ」
「なぜ製薬会社に頼んで、ワクチンを作ってもらわないのですか。アンプル詰めをやらせているのなら、今がチャンスですよ」
 丸山千里は困ったような顔をした。梅原医師はもう一押ししようと思ったが、丸山千里の心筋梗塞のことを考えて、そのまま口をつぐんだのであった。
 ……
「前から頼んでいたじゃありませんか。なぜこういうときのために、製薬会社に渡して一挙に大量に作って戴けないんですか」
 丸山千里は激しい口調で、しかも噛みしめるようこういったのである。
「二十年こつこつ自分で可愛がってきたものを、そうたやすく人手に渡すことが出来るものですか」
 ……
 矢追抗原の話を聞いた。この抗原は、ぜん息などに効くというので評判であったが、ある製薬会社が大量生産をはじめた途端に効かなくなったというのである。
 もし丸山ワクチンが大量生産に入ったなら、あるいは矢追抗原の二の舞になるのではないか。それを知っていて丸山千里は怖れているのであろうか。梅原医師はその話を聞いて、これ以上丸山千里教授を問いつめても無駄だと考えたのだ。
 ……
「 ……
 私は無視されてもかまわない。ガンで苦しんでいる人に、いつでも私のワクチンを使ってほしいと思うだけだ。私は臨床医だ。
 …… 」

  こんな考え方が、臨床試験をしたい医師達の希望に応えられなかったとの記事もある。
 丸山博士は、卒業後もそのまま研究室に残って研究を続け、教壇に立って学生達に教えたが、やはり、私にあの開業医がいった通り、臨床医師を育てる医専卒業生の精神を自分の精神として、生涯を通してその道を貫いた、一人の臨床医であったのだろう。
 だからこそ、結核にもらいにも、明らかな効果があることを知りながら、認可を求めることをしないままに、ここまで来てしまったのかも知れない。

 学長には2度推され、一度は受けたが、一度は断ったとか。
 唯々研究に没頭し、患者を愛し、自分が治療した患者の快復を喜び、それだけしか求めなかった人であり、私の右手を、大きな温かい両手で、しっかりと握って下さった、あのままの、1人の医師であり、人間であったようだ。

 それにしても、日本という国は、これ程大きな仕事をした人間を取り上げて、正当に評価することが出来ない国なのだろうか。

 やがて、私を採用して下さった、あの庶務課長も、大学の部長を最後に定年退官して、間もなく亡くなられた。
 あの時「高専では、文章を書ける人が欲しい」といわれ、高専の中に入って、確かに言葉通りだと思った部分もあるにはあったが、あの時の意味は、妻を働かせながら、あまりにも暢気そうに生活していた私を見て、私どもの家族に、心から同情した言葉だったに違いない。

 この訃報を聞くと、私は、中京病院から戴いて来た診断書の封を切った。
 中には、次のように書かれていた。

    証  明  書
 一 病 名  腎 腫 瘍
右の者昭和四十五年二月十五日以来当所にて加療中なるも、目下ほとんど全治の状態なり今後三ヶ月に一回程度フォローアップに来院する程度なり。
右証明す

昭和四十八年四月十九日
社会保険 中京病院
医師  〇 〇 〇 〇

 病名が「腎腫瘍」と書かれていては、職員として採用出来る状態ではなかっただろう。
 開封されずに返されたのは、私にとっては幸運だったが、私のような無能者を採用した学校や学校の人達にとっては、どうであったかは分からない。
 唯々感謝するばかりだ。

 しかし、誰が何を思い、何を考えようと、丸山ワクチンの単独投与を続ければ、癌は確かに小さくなり、あるいは消え去って、絶望といわれた多くの人達が元気になり、仕事に復帰出来る。
 完治にまで行かない患者でも、癌の塊を、体のどこかにつけたままで、元気で働いている人もあるし、そこまで行けない人も、静かに眠るように、安らかに去って行く。

 私が接した一番新しい情報は「週刊新潮」2001年1月4、11日号と18日号に連載された「置き去り20世紀の奇談 丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったか 祝(いわい)康成」の、2冊で10ページの記事だ。
 11日号には「…… 丸山ワクチンが認可されなかった謎を解き明かす」として、認可申請から不認可に至るまでのことが「医学界のドンの反発 凄まじいアラ探し 巧妙に仕組まれた罠」との副題で、具体的に書かれている。

 ……
 昭和39年に投与が始まって以来、これまで、ガン患者は35万人弱にのぼり、現在も年6,000人近い新規患者が、投与を初めている。
 ……
 ……
 この露骨な丸山ワクチン潰しの陰には、ある男の意向があった、と囁かれている。医学界のドンと呼ばれた山村雄一・元大阪大学総長(平成2年没 71)である。当時、取材に当たった均分記者が明かす。
「山村先生は免疫学者の第一人者で、牛型結核菌のワクチンでガン治療をやっていた。ところが牛型結核菌というのは副作用を取り除く技術がなかなか確立できない。それで丸山先生に、人型結核菌から副作用を取り除いた技術をどうやって開発したのか、教えろ、とかなり高圧的に迫った」 
 昭和51年、丸山が製造認可を申請する数ヶ月前のことだった。当時の丸山の反応を、長男の丸山茂雄(59 ソニー・ミュージックエンターテインメント前社長)はこう記憶している。
「親父は断ったんです。そのときは“そんなバカなことができるわけ無いじゃないか”というような反応でした」
 ……
 また、山村と親交のあった医学者はこう証言する。
「山村先生は尊大でしたね。威張っていた。山村先生は丸山ワクチンには反対でした。それは間違いない。実際にそういう内容の手紙をもらいましたよ。なぜ反対だったかは知りませんが、もし丸山先生に先を越されたことへの嫉妬だとしたら下らん奴ですね」
 ……
 もし、認可されたら、製薬メーカーには莫大なカネが転がり込むことになる。一般的に抗ガン剤は「ガンには効かないが、株には抜群に効く」と揶揄されるほどで、それが注目を集めている丸山ワクチンなら、歴史的な大ヒット商品となったのは間違いない。
 昭和50年から51年にかけて、認可された2つの抗ガン剤のケースを見ると、それがどんなにボロい商売かが分かる。
『中学製薬』が開発・販売した「ピシバニール」と『呉羽化学工業』が開発し『三共』が販売した粉末薬の「クレスチン」である。
「抗ガン剤は大別すると2種類あり、直接ガンを叩く化学療法剤と、人間の体内にある免疫力を強化する免疫療法剤に分けられる。この免疫療法剤の第1号が50年に認可されたピシバニールで、第2号が51年認可のクレスチン。そして第3号になるはずだった免疫療法剤が丸山ワクチンです」(医事評論家)
 ともかく、ピシバニールとクレスチンの売れ方や凄まじく、発売十数年間で1兆円を上回る売上を記録。なかでも、サルノコシカケの培養菌糸から抽出したクレスチンに至っては副作用が皆無で、しかも内服薬という利便性もあり、57年には年間売上が500億円と、全医薬品中の第1位に躍り出た。しかもトップの座を62年まで6年間も譲らず、日本の医薬品史上、最大のヒットとなっている。
 ところが、平成元年12月、厚生省はこの2つの抗ガン剤について、「効能限定」の答申を出した。つまり、単独使用の効果が認められないので、化学療法剤との併用に限定するというもの。要するに「効果なし」というわけだ。
 ガンに効く、と持て囃しておきながら、一転、効果なしでは、ガン患者も家族も死んでも死にきれまい。
 患者の命を無視した国と製薬業界の在り方に、国公立、大手民間など約2330病院が加盟する最有力の病院団体『日本病院会』は激しく抗議。
「これまで両剤に投じられた1兆円にのぼる医療費は無駄遣いだったことになり、死亡したガン患者や家族、さらに健康保険財政に大きな損害を与えた」と厚生省と日本製薬団体連合会を非難している。
 1兆円もの医療費を、詐欺同然に巻き上げてしまった、その無茶苦茶なやり方には呆れるほかないが、一連の報道を細かく検証していくと、丸山を蛇蝎のごとく嫌い、認可を阻止し続けた一派の動きが炙り出されてくる。
 ガン患者にとって常に誠実な医者であり続けた丸山千里は、巨大利権が蠢く医薬品業界という伏魔殿の中では、あまりにも無力すぎた。
 ……
 丸山ワクチンは難病中の難病、膠原病にも効いた、
 ……
 1月18日号には「噴出する疑惑 猛烈な官民癒着 今も続く迷走 」の副題がついている。
 ……
 丸山ワクチンの不認可後、基礎研究に従事した野本亀久雄(64) = がん集学的治療研究財団副理事長 = もこう語る。
「私は、丸山ワクチンとは何か、癌にどのような影響を及ぼすものかを2年間、徹底的に研究した。山村が一番潰したがっていたのは私ですよ。私が丸山ワクチンは効かないといわないから。どんな妨害があったかは言いたくもない。医学界のトラブルというのは生易しいものじゃないんだから。文部省の補助金分配にしても、今やっていたら逮捕だろうね。文部省のパイの山分けをやっていれば、それは強いよ。ただ、私はそんなもの、一銭も貰っていなかったから関係なかったけどね。それまで山村に恩恵をこうむっていた人が、山村が゛ただの水”と言ったらそれになびくのは当然なんだ」
 丸山ワクチンを擁護するデータを出した研究者が、補助金をばっさり切られた、
 ……
 薬事審のメンバーの一人もこう証言する。
「桜井と山村は非常に親しかったですね。かれらにとって、我々はチンピラみたいなものです。桜井は、初めから丸山ワクチンを不認可に持っていく姿勢だった。あれでは裏に何かある、と勘ぐられても仕方ありません」
 ……

「当時、癌治療薬の市場は年間800~1,000億円といわれていました。うち、クレスチンが市場の半分に当たる500億円を売り上げています。うちは、丸山ワクチンがクレスチンの三分の一から四分の一でも売れてくれれば、と考えていました。そうなれば、年間200~300億円の売り上げになる。これは裏を返せば、年間ベースで1億円の経費を使っても元がとれる、ということです。製薬メーカーは、ひとつの商品がヒットすればビルが建ったり、株価が二桁上昇することさえあります。ですから新薬を認可してもらうためなら、カネに糸目をつけず、人海戦術で接待します」
 ……
「……
 赤坂の料亭で食事をする。その後は銀座のクラブを2~3軒ハシゴ …… 甘味類と、その下に現金 …… 少ないときで5~10万円、多いときで50~100万円渡していた」
「 …… 女性 …… 売春 …… ひっくるめると50~100万円ですね」 
 ……
 圧巻はパーティーである。
「大手がよく使う手は『新薬試験中間発表会』などと称して、帝国ホテルやニューオータニで200人や300人を集めてパーティを行うのです。
 しかし、研究発表も立食パーティも形式だけ。肝心なのはその後。全員に帰りハイヤーを用意しますが、その際に車代を渡します。金額は少ないひとで10万円、多いひとだと数百万円は渡していましたね。うちも同じようなパーティを開催したことはありますが、ある先生から“やはり大手とは違うな”と嫌味をいわれたことがありました」
 高級官僚の天下りポストも、大手はしっかり用意していた。
 ……
 加えて、丸山の周囲にも“宝の山”の匂い嗅ぎ付けて、欲の皮の突っ張った人間たちがうごめくようになる。
 ……

 そして、最後には、次のように書かれている。

 ……
 東京・丸の内で丸山ワクチンのシンポジウムが開催されたのは平成11年12月のことだった。患者家族の会の事務局長、南木雅子は準備段階でこんな体験をしている。
「主催を承諾してくれた産経新聞社に、癌研究会の理事が直接乗り込んで“丸山に関わるシンポジウムを主催するなら、今後、癌に関する取材協力は一切しない”と言ってきたのです。産経新聞は、広告やチケットを刷り終えていたにもかかわらず、慌てて主催を降りてしまいました」
 丸山ワクチン迷走の終着点は、未だ見えていない。
(了)(週刊新潮)

 これでは、丸山ワクチンの認可に関係した人達は、学者でも研究者でも医者でも官僚でもなく、唯々金銭の奴隷になって働いた、愚劣な群衆に過ぎなかったことになる。

 また、記事の中にあった「 …… 論文が素人みたいなもの …… 」とは、何ということだろう。
 私は、これまで、哲学、宗教、歴史などの論文は、僅かに読んではいたが、医学関係の論文は全く知らず、丸山博士の論文を、素人として、はじめて読んだ時には、素人にも分かり易い、しかも、理論的に誠に整ったものとの印象を受けた。
 そして、素人には分からない、難しいといわれる医学界でも、こんなにも分かりやすい論文が書けて、しかも、学界にも通用することを、はじめて知った。
 そして、こんなにも素晴らしい専門家が、医学界にもいたことに、驚いたものだった。

 しかも、論文の中で触れた、それぞれの分野の専門家にも、間違いがないと認められた論文だったと、丸山博士自身が書いている。

 こうした形の論文を「素人のようなもの」と考えることそのものが、既に時代遅れになっている。
 この話しぶりから考えると、玄人的、専門的といわれるものは、むやみに専門語を使って、素人には分からないように書いたものであるに違いない。

 これこそ、長い間問題にされて来た、日本の多くの学会の癌ともいうべきものだった。
 わざわざ難しいことを書いて、素人を煙にまく。「分からない奴は来るな」と、気に入らない者を突き放す。
 これが、明治時代から大正時代にはじまり、昭和の時代まで続いて来た、日本の学会、大学の陋習だった。

 古い文章の例を挙げると「あらざるべきものであって」とか「あらざるべからず」とか「於いて」とか「於ける」などを連発する文章などだ。

 私も、工学系の幾つかの研究論文を、それこそ、もっと知らない素人の能力で書いたが、何とか読んでも貰えたし、それなりに認められた。

 誰にでも理解され、誰にでも通じるものこそ、優れたものではないか。
 これこそ、小説を書くためには、第一に守らなければならない条件だ。
 ものごとの考え方が、ここでも大きく違っている。

 何時だったか、筋ジストロフィーの特効薬の開発は、たとえそれが成功しても、患者の数が少ないことから、経済的に採算が合わないために、製薬会社も研究者も、未だに手を出していないとのニュースがあった。

 丸山ワクチン認可の経緯を見ると、この説も頷ける。
 もしも、これが本当なら、こんな研究にこそ、研究し甲斐があるように、金が欲しければ、国家が充分に金を与えるべきだろうし、学者や研究者の多くが求める名誉も、存分に与えるべきだろう。

 私は、子供の頃に、父親から聞かされた。
「自分の息子を医者にすれば、百姓の全財産を売り尽くしても、元を取って、余りあるっていうことだ。
 医者になったら、結核患者を三人持てば、悠々と生活が出来るっていう話もある。
 薬九層倍っていうから、医者は、ほんとに儲かる仕事だ。
 お前は、医者になりたいか?」
 私は、日々正義を教えている父が、一体何をいっているのかと腹を立て、そんな愚劣な者にはなりたくないと、はっきりと断った。正義を守る医師になるところまでは考えが及ばなかったからだ。あの時の父は、残念だったに違いない。

 あのことがあってから、白衣に包まれた医師の姿を見ると、何時も、あの時の父の言葉を思い出した。
 そして、真剣に私を診療してくれた、多くの医師達に感謝しながらも、その姿が、果たして彼等の本心なのか、建前なのかと、疑えて仕方がなかった。
 父の死後に知ったが「鬼手仏心」という言葉がある。
 仏のような優しい心で、鬼のような厳しい診療をする。
 病気を治すには、患者の痛みなどは容赦はしないとの意味もあるだろうが、父の言葉を思い出すと、医師はこうあるものとは考えられず、こうあるべきものとしか考えられなかった。
 こんなことから、ガンや丸山ワクチンも、自分なりに、静かな気持ちで見つめることが出来たのかも知れなかった。

 また、最後に書かれていたが、「平成11年12月」の時点でさえ、丸山ワクチンのシンポジウムを阻止する者が、今でも癌研究会の理事にまでなっていることは、信じられないことではないか。
 これは、丸山ワクチンに対する圧力集団が、今なお健在であることの証明だろう。
 そして、別の面からみれば、丸山ワクチンが、どれ程大きな効果があるかの証明でもあるだろう。

 しかし、何がどうあろうと、丸山ワクチンが、癌を叩く薬として効くことは間違いない。

 歴史は古いが、常に新しい薬として、今日も日本の多くの人達の身体の中で、元気に生きて働いている。
 結核にも、らいにも、確かに効果のあることが証明されている。
 膠原病にも効果があれば、細胞賦活剤である丸山ワクチンは、万病の薬とまでは行かなくとも、他の病気にも効くかも知れない。いや、効く筈だ。
 この点は、是非とも試してもらいたい。
 副作用がないために、どんな患者にも打つことが出来るだろうからだ。

 末期の癌患者が、モルヒネを打つと、痛みを感じなくなるのと合わせて、意識も朦朧として来るが、どんなに体力がなくなっても、丸山ワクチンには、そんな副作用は、全く見られないと、丸山先生は繰り返し、私にも、はっきりといわれていたからだ。

 こうして、丸山ワクチンは、安い費用で、累計35万人の人達に投与され、今でも9万人の人達に投与されて、今日も癌を叩き、絶望しかけた人達を救済し続けている。

 私は、この中の1人として、確かに救われはしたが、未だに自分の癌が治ったとは考えていない。何時活動をはじめて、あの時のように暴れ出すかが分からない。
 こう考えていたために、常に身体に気をつけて、無理もしなかったし、大好きな旅行もせずに生きて来た。
 もしも元気だったら、他の仕事がしたかったのに、サラリーマンだけで、ここまで来てしまったのも、癌を身体の中に持っていたためだった。
 癌は、決して治ることのない病気だと、心の中に、深くしみ込んでしまっていたからだ。

 癌とは、こんなにも恐ろしい病気なのだ。

 私は、こうした事実を、多くの方々に知って戴き、図らずも癌にかかり、困っている人達がいられたら、今すぐ単独で丸山ワクチンを使って、一日も早く快復して元気に働き、私のように、生きる喜びを満喫して戴きたい。
 また、命運に恵まれず、若くして去られる人達も、明らかな意識のままで、安らかにその生涯を終わって戴きたいと願っている。

 そのために、私はこれまで生かされて来た。これを感じて、私自身が生きて来たと考えている。

 集めた資料を読んでいると、認可に反対するために、どれだけ多くの人達が、どれだけの努力を傾けたかが分かって来る。
 これだけの働きかけがなかったら、丸山ワクチンは、とうの昔に認可されていただろうし、これだけ効果のある、価値あるワクチンであったからこそ、強く激しい反対運動が繰り広げられ、未だに認可されずにいるのだろう。

 日本の医学界・薬学界の人達が、これら、認可に反対した力と賛成した、双方の力をまとめて、丸山ワクチン認可のために働き、更に足りない部分を補って、優れた製剤として発売し、多くの患者に投与していたら、日本のみならず、世界の癌患者は救われて、その数も大きく減少していたことだろう。
 そして、日本の幾つかのホスピスは、空き家になってしまったことだろう。

 丸山ワクチンが、結核にもらいにも、驚異的な効果があることがはっきりしている今、結核患者やらい患者のいる国に、国際的な援助として大量に送って、絶滅への手助けをすることも出来るだろう。
 この場合、安価であることが、大きな価値になる筈だ。

 認可のための努力を続けることは、今からでも遅くはない。

 こうした私の考えと願いを、一切の恩讐を乗り越えて、多くの方々に伝えることこそ、痛い目に逢いながらも、何とかこれまで生きることが出来た私の責任であり、使命であり、生き甲斐でもあると考えるようになって来た。

 また、こうして書くことが、何の役にも立たない、道ばたに転がる、醜い小さな石ころのような私にも眼をかけて、真剣に救済して下さった方々に対して、本当に有り難うございましたという気持ちの、ささやかな表現であるとも考えるようになって来た。

 誰が何といおうと、丸山ワクチンは確かに効く。
 これは、議論や理論を越えた事実であり真実だ。

 息子は、やがて大きくなった。
 私の手紙が読める年齢にもなったし、妻も白髪になって来た。
 私は、息子と妻のために書き続けて来た記録を、改めて出して見た。
 自分で読むと、元気な今では、考えられない切実な言葉が、稚拙な表現で、長々と続いている。

「お父さんは強かったですよ。
 あと3ヶ月だっていわれても、ちっとも深刻な顔を見せなかったんですから。
 2人で病院から帰る時には、何時でも『元気でな。気をつけて帰るんだぞ』って、見送ってくれたもの。
 私は、どんなに悲しくっても、あの時の、冷静なお父さんに慰められて生きて来たんです」
 妻は、こんなことをいっていた。
 とんでもない。
 あの入院の時程、私が悩み、苦しんだことは、先にも後にも一度もなかった。
 これが最後かも知れないと、病院のベッドの上で、息子を何度もしっかり抱きしめた。
 そして、あの見送りの言葉は、これで永遠の別れになるかも知れない。
 たとえ私が死んだとしても、2人とも、落胆せずに、元気で生きなさいという、永遠の別れの気持で見送った言葉だった。
「俺は、老衰以外の病気では、絶対に死なないぞ」
 これが、私の口癖だったが、これこそ、悲しみ苦しみにしおれ、倒れそうになる自分の杖とも支えともして生きて来た言葉だった。

 山本先生に逢えなかったら、私は中京病院へは行けなかっただろう。そして、あれ程の手術を受けることも出来なかっただろう。
 丸山先生に逢えなかったら、今ここに生きている私はなかっただろう。
 それよりも、老衰以外の病気で、私が死んだら、私を採用して下さった、あの小倉さんの立場は、どうなってしまったかが分からない。
 私の体を診察し、手術をして、癌細胞を摘出して下さった医師達と看護婦達の真剣な眼差しも忘れられない。

 意識を失い、何とか気がついて、たった1本のカンフルで、心臓が力強く動いた時、私の全身は、死臭にまみれていた。
 これというのは、私の父親が死んだ時に、私の鼻をついて来たのが、この匂いだったからだ。
 この匂いを思い出すと、よくも生かされた、よく生きたと、感謝の気持ちで一杯になる。

 本当に多くの方々にお世話になった。
 病気以前にも、その後にも、私は私を取り巻くすべての人々に支えられて生きて来たからだ。
 1人で生きた、1人でやったなどといえるものは、何もなかった。

 こうした人達よりも、これまで私を見続け、支え続けてくれた妻の心労は、どんなだったろう。
 心臓肥大とかで、何時でも胸が苦しい、肩が凝ったといっていたが、私の入院中は、そんなことは一言もいわなかった。
 幼かった息子も、幼いなりに、父を失う悩みに、密かに耐えて生きて来たに違いない。
 このためにも、生きなければと、力を尽くして生きて来た。
 障害に逢ったら、気にせずに乗り越え、お世話になったら、2倍3倍にして返さなければと思っている私は、これから、どんな生き方をすれば良いかと考えて来たし、これからこそ考えて、一つずつ実践して行かなければならない。

 それにしても、あの時の、あの心身の痛みと苦しみは、一体何のためだったのだろうか。そして、今日まで、こんなにも心を込めて書いて来た、この1,000枚以上の手紙は、一体何のために書いたのかと考えるようになって来た。

 親がなくとも子は育つ。成長する子供へは、親は余計な干渉はすべきではないとの言葉がある。
 多くの人達は、これを素直に信じて来たし、今でも信じている人達が少なくない。
 とんでもない。
 こんな理屈を信じて、多くの親達は、自分の子供を満足に育てなかった。
 満足に育てなくとも、敗戦後の初代目は、周囲に多くの教訓があり、反面教師も多かった。しかし、二代目は、僅かに豊かになって、機嫌を取られて気がゆるみ、周囲には、ほとんど教訓がなくなった。
 教訓を見ても、教訓と感じなくなり、教訓としなくなった。
 一方、反面教師も、周囲から姿を消して僅かになった。
 子供達を管理し、鍛える環境が極度に希薄になって来た。
 この結果、若年者の犯罪増加に象徴される、社会の荒廃を見ることになって来た。
 「子供は、親の背中を見て育つ」との言葉がある。
 うなずける部分もあるが、これですら、親がなければ出来ないことだ。

 そして、以前には、親の背中を見ることを、教えてくれた人があったからこそ、そこから、自分の生きる道を読み取ることが出来た。
 今、ここに生きている私は、これまでの日々を、父の言葉を思い出し、考えながら生きて来たし、これからも、同じ思いで生きて行くに違いない。
 そして、何時も惜しかったと思うのは、父が早く逝ってしまったことだ。
 今生きている子供達には、もっともっと教えなければ、満足な子供には育たない。
 これらは、歴史が明らかに教えている。
「親の背中を見て育つ」などのおかしな言葉が、理論的な説明を失って、人間を堕落させた。そして、日本人を駄目にした。
 このまま行けば、私の息子も含めて、たった今、堕落している日本の子供達ばかりではなく、大人まで、もっともっと堕落を続けて行くだろう。
 間もなく去って行く私は、生きている僅かなうちに、彼等の堕落を抑えるために、出来る限りの努力を続けるより他にない。
 こう思うと、書いても書いても、書き切れなかった。
 能力と体力があれば、5,000枚でも1万枚でも書いただろう。これらがなかったために、1,000枚しか書けずに終わっただけだった。
 しかし、こうして書いた手紙も、今になっては、価値を感じなくなって来た。

 どうしてだろうか。
 私の考えていることも、私の文章表現力も、問題にならない稚拙なものでしかなかったからだ。

 私は、良書を読まなければと、常に評価の高いものに関心を持って、出来るだけ読んで来た。同時に、息子にも妻にも、世に知られた良書を読んでもらいたいと願って来た。
 能力も知識もない、こんなにも小さな私が、どんなに精一杯書いたとしても、世の良書に匹敵する文章などは書ける筈がない。
 私の書いた文章などは、これまでの人類の歴史の中では、浜辺に広がる砂粒の、たった一粒程の価値もない存在だ。
 それに、内容といえば、自分の死を間近に控えた、中年男の泣きごとだ。
 こんなくだらない文章を読む時間があったとしたら、もっと優れた、世に良書といわれる、評価の高いものを読んでもらいたい。

 また、これを書いた当時を振り返ると、この手紙は、読むためのものではなく、私が書くために書いた手紙であったような気がして来た。
 私が書くことで、考え、書き続けることで体力を維持し、更に快復出来たのかも知れなかったからだ。

 拾い読みしているうちに、あの頃が懐かしくなり、熱い涙が流れて来た。
 この手紙は、書いた私の他には、まだ誰も読んではいない。
 読もうと思えば、誰でも読める。
 しかし、私以外の者が、こんなものを読むことに、一体何の価値があるだろう。

 ぼつぼつと、手紙を読んだ私は、これを庭先へ持ち出して、数枚を破って地面へ捨てた。
 マッチを擦ると、白い炎が紙に移って、ゆらゆらと、赤い炎が広がった。
 更に数枚ずつを破っては、火の中へ投げ入れた。
 小さな炎は次第に大きくなり、黒くなった燃えかすが、空高く舞い上がった。
 風が出て、燃えかすが飛んで行った。
 痛みと悩みと、不安と恐怖と、限りない不幸感に充ち満ちた、長い間の小さな記録は、煙と一緒に、暮れなづむ空の彼方へ消えて行った。

 薄く霞のかかった空には、細い下弦の月と、僅かな星が光り出していた。

ー終ー

参考 引用文献

   結核菌体抽出物質(結核ワクチン)による悪性腫瘍の治療について    (日本医事新報2317号より転載)日本医科大学皮膚科教室  丸山千里   ガンと闘う丸山ワクチン 中山道治     (雑誌 文芸春秋  昭和45年8月号  文芸春秋社)   毎日ライフ臨時増刊 最新ガン全書     (昭和50年12月20日 毎日新聞社)   私生児「丸山ワクチン」の十七年 三輪和雄    (雑誌 文芸春秋  昭和56年(1981年)年8月号  文芸春秋社)   丸山ワクチン不承認に意義あり 中山道治    (雑誌 文芸春秋  昭和56年(1981年)10月号  文芸春秋社)   ガンを追いつめる 丸山ワクチン丸山千里    昭和51年(1976年)9月 ワニの本 KKベストセラーズ   ガンが消えた  井口民樹    昭和56年(1981年)4月 桃園書房   それからの丸山ワクチン ガンを追いつめる 丸山千里    1986年(昭和61年) ワニの本 KKベストセラーズ   愚徹のひと 丸山千里 井口民樹    1994年1月 文芸春秋社   月刊雑誌 ニュートン 二〇〇〇年一二月号         ニュートンプレス   週刊新潮 二〇〇一年一月四、一一日 新年特大号  一月一八日号      新潮社                                                他 新聞雑誌等

 この拙作を、最後までお読み戴き、本当にありがとうございました。
 もしも、癌にかかられたら、癌患者に関係されたら、また逢われたら、どうぞ、この拙作を思い出し、元気に生きられる人達を、1人でも多くするために、ご援助、ご協力をお願い致します。
 丸山ワクチンの投与が、今すぐ欲しい方は、 03-3822-2131 にお電話をされれば、それなりのお答えが戴けると思います。

 

 この拙作を、丸山先生の霊前に捧げます。

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