ー6ー
息子よ、
私は、お前とお前の母親のために、これから、長い長い手紙を書くことにした。
何故こんなことをはじめたかといえば、私は、これから生きて行くお前のために、間もなく、何もしてやれなくなってしまうことが分かって来たからだ。
私は、日毎、年毎に成長して行くお前を見ながら、やがてお前が大きくなって、何かにつけて話し合い、私の老後の生活についても、何かと相談出来るようになる日まで、充分に世話をしてやりたかったし、多くのことを教えてやりたかった。
また、白髪になったお前の母親の平和なしあわせな姿も見たかった。
それまで、私は私なりに働いて、私のために働いて下さった人達のために、僅かでも役立ち、多くの人達に感謝しながら、安らかに生涯を終わりたかった。
これまでの私は、そうした最後の日のために、力を尽くして生きて来たようなものだった。
これは、私の甚だ平凡な生き方だったし願いだったが、今では、この何れも果たされそうになくなった。
医師の話では、この前の手術で、私の右腎臓のすべてと、左腎臓の一部を摘出して、体内に巣喰っていた癌細胞の大方を取り除くことは出来たが、診断も手術も手遅れであったために、細胞は、2つの腎臓ばかりではなく、右腎臓の周囲にも大きく広がり、それらのすべてを取り除くことは出来なかったとのことだ。
体内に癌細胞が残っていれば、それがどんなに僅かでも、手術の傷が癒えるのと並行するように、癌細胞も体内に広がって、私の体を蝕んで行くかも知れない。
そして、癌細胞が、他の臓器にでも転移したら、明日にも、死が襲うかも知れなくなったからだ。
何故明日かといえば、手術をすれば、手術をした傷口から、癌細胞が血管に入って、全身に流れる可能性があるからだ。
そして私が死ねば、お前の前からも母の前からも、私は永遠に姿を消して、互いに見ることも話し合うことも出来なくなってしまうからだ。
これでは、あまりにも悲しく惨めではないか。
これまで、他人を押しのけてまで、特に何かをしたいとか、何かを得たいと考えたことも、特に意図的に、他人に迷惑をかけたこともなく、平凡に成長し、平凡に生き、平凡に結婚し、そして、ありふれた生活の中でお前が生まれて、1家3人で生活し、これからも、同じような生活を続けたいと望んでいた私が、間もなく地上から消え去ってしまうとしたら、何と残念なことだろう。
やり場のない不満と不安と悲しみのために、息苦しい毎日を送っている。
私は生きたい。そして、せっかくこの世に元気で生まれて来たお前の母を、私の願い通りに、平凡な女として、その生涯を送らせたかったし、お前もまた、平凡な父母に恵まれた平凡な人間として、健全に育てたかった。
これが、人間として、この世に生まれて来た私の責任であり使命であると思っていた。
私は、社会的には、何の価値もない人間であり、いてもいなくても、何の損得もない者に過ぎないが、というよりも、むしろ社会に対して、迷惑をかけ通しだったような存在だったが、お前とお前の母親にとっては、甚だ大切な人間であり、責任の重い存在だ。だからこそ、この責任を果たそうと、これまで真剣に働いて来たし、これからも働いて行きたかった。
私が生まれ育った家は、豊かではなかったが、確かに両親が揃っていたために、日々父母を見て、父母の話を聞いて成長した。
僅かに変わっていたのは、父は、小野派一刀流12代目の剣士であったために、槍、 柔道、乗馬などの兵法の他、中国の四書五経、仏教教典の般若心経、法華経などから、琴、三味線、横笛、尺八を習い、これに自分の考え方を加えて、毎日のように私に話をしてくれていた。
この父は、いっていた。
他人を殺す仕事である武士や軍人になったら、自分の生命が惜しいなどというのは、筋が通らない。
他人を殺そうとすれば、自分も殺されるのは当然だ。
だから、軍人になりたいと思ったら、死んだつもりになって行け。
生きたければ、軍人などには、決してなるな。生命が惜しければ、どこまでも逃げて行け。
正義というものは、多くの人間のしあわせのためにあるものだ。
それを、僅かな数のものの利益や満足のために使う者があったとしたら、絶対に許してはならない。
どんな地位の者でも、どんなに金がある者でも、徹底的に叩きつぶせ。
強い者と弱い者を見た時には、どちらの味方になるか。
ほとんどの者は、それが正しくないと分かっていても、強い者の味方になろうとするだろう。
これでは、本当の人間でも男でもない。
自分が正しいと信じたら、正しい者の味方になれ。
その時は強そうに見えたとしても、不正な者は、必ず破れる時が来るからだ。
正しい者の味方になり、弱ければ守り、育てて行け。
これこそ男の道であり、武士道だ。
若いうちは、難しい道を行け。そして、自分を力の限り鍛えて行け。
幾つもの例を挙げて、自分の考え方を、毎日のように私に話していた。
この他、父が私に対して、何をどのように話したかは、時間の許す限り、書いて行こう。
それにしても、無理にでもものごとの筋を通そうとしたために、信用はあったが人気がなかった。
「お前が15歳になるまで私が生きていられたら、まだまだ教えたいと思っていたが、こんな状態では、難しくなって来た。
残念だが、仕方がない。
男は、家を出たら戦場だ。
常に戦い、勝たなければ生きては行けない。
男には七人の敵があるなどいうが、家を出たらば、ほとんどが敵だ。
敵でない者は競争相手だ。
だから、憎まず、叩かずに勝つためには、自分を磨き鍛えるより他にない」
こんなことをいいながら、1943年2月、私が小学校4年生の時に亡くなってしまった。
その後の私は、生活ばかりではなく、心の中まで貧しい毎日を生きて来た。
自分の父親が、他の父親と同じように、多くを語らず、多くを教えなかったら、ありふれた親子の関係で終わっていたに違いない。
しかし、私を他の人達と違った人間に育てたかったのか、あるいは、より個性的な人間として育てたかったのかは、今となっては知ることは出来ないが、こんな教育をされて、途中で父を失った私は、父の意のままに、あるいは、父の意以上の、自分なりの生き方をしたいと考えたために、常につまずき、迷いながら生きて来た。
もしも、私が20歳になるまで、せめて15歳になるまで生きていてくれたら、私は、父の言葉の意味も理解出来ただろうし、従うことも、批判することも出来ただろうが、私が幼過ぎたたために、父の言葉を、どう扱い、どう考えて、これから生きて行けば良いかが分からなくなってしまったからだ。
詳しいことは、これから時間があったら書くことにして、先へ進もう。
こうしたことから、人間が生きる意味や価値から考えはじめて、日本は敗北することを知りながら、何故戦争をしてしまったのかを考えた。
太平洋戦争に勝ち、有色人種の最後の砦であった日本と日本人を支配下に入れた白人キリスト教徒は、これからどんなことをするのかと考えて、元アメリカ兵であった牧師の教会に通ううち、これらの疑問を自分で解明したい。そして、荒廃した戦後の日本の再建に役立ちたい。
父親のいっていた本当の正義とは何なのかを、自分の力で確かめたい。それには、自分なりに学習するより他にはないと、夢のようなことを考えて、ここまで来てしまった。
もしも家庭的に恵まれていたら、私は若いうちに家を出て、自分なりの道を進んでいただろうが、事情があって遅れてしまった。だからこそ、この遅れを取り戻そうと、遠いこの地にやって来た。
私の近所の人達は、ほとんどが東京へ出て行ったが、私は、もっと遠くへ行きたかった。
何故なら、東京では、親戚が多くて、何となく物足りなかった。
出来たら、もっと遠くのワシントンかロンドンへ行きたかったが、手がかりもないし、2人では難しい。
それならばと考えたのが、知らないことの多い東京よりも西だった。
そして、これからは自動車の時代だと、自動織機で成功した豊田佐吉が、息子の喜一郎にはじめさせた、自動車会社のある豊田だった。
中身は知らないが、当時は、屋根のまん丸いデザインドームや、日本ではじめてといわれたコンベアベルト方式が話題になっている元町工場があったからだ。
仕事は順調だったが、無理をした。
そして、手術まで手遅れになってしまった。何もかも、手遅れの人生だった。
今更どんなに悲しんでも苦しんでも、時間は決して逆転しないし、癌に効く薬はない。
こんな人間は、私一人で充分だ。お前をも含めて、これから生まれ育つ人達には、私のような悲劇は、再び味わわしてはならない。
そして、私の息子として、せっかくこの世に生まれて来たお前が、成長の途中で、しおれた時には水をさし、うぬぼれた時には反省させ、私の考え方、生き方は、多くが見本でしかないだろうが、時にはお前の手本になり、あるいは反面教師になり、私の生きて来た歴史が、そのままお前の糧になることを願って生きて来た。
先人の歴史を知り、取捨選択して自分の中に取り入れて、自分のものになった時に、知識が、はじめて智慧になり叡知になって輝き出す。
これらが重なり交差して、文明、文化になって行く。
「親はなくとも子は育つ」などの言葉はあるが、親のない子のみじめさは、改めて書くまでもないだろう。
とにかく、健全という言葉そのままにお前を育て、今日のこの日を振り返って、生まれて来て良かった。この父親を持って良かったといってもらえる父親になりたかった。
これが、夫として、親として生きて来た私の責任であり、使命でもあると考えて来た。
社会的には、取るに足らない存在だが、お前と母に取っては、替えることの出来ない人間だからこそ、力の限り生き抜きたかった。
ところが、未だに半端な知識しか得られず、何一つ解明出来ないままで、死ぬかも知れなくなって来た。同時に、お前は、私が父を失った時よりも、遙かに幼いうちに、父を失うかも知れなくなった。
しかし、どのような理由があろうとも、同じ悲劇は、再び繰り返してはならない。
私がこのまま世を去れば、まだ3歳でしかないお前は、私を思い出すことすら出来ないだろう。特に優れたものも持たない私を、取り立ててお前の記憶の中に残しておきたいとも思わないが、身体も考え方も、私とほとんど同じと思われるお前に、これまで生きて来た私の考え方、生き方を書き残しておけば、これから生きて行くお前は、以前の私のようには迷わずに、いくらかでも賢く生きて行けると考えるようになって来たからだ。
だからといって、私のように生きて欲しいとは思わないし願いもしない。
自分の父親の生き方を知り、これからの自分の生き方を考えるための、小さな参考 に、あるいは糧にしてもらえれば、それだけで充分だ。
しかし、是非とも知って欲しいのは、お前の母は、私のような者について、遠いこの地までやって来て、友を見つけ、仕事を見つけて、ここに生きる道を逞しく切り開いて生きて来た。
この母であれば、私が死んだ後でも、何とか生活して行けるだろう。
これからの私は、毎日手紙を書き続けて行く。そしてこの手紙は、このまま残って行くだろうし、お前が15歳、あるいは20歳になって、読みたいと思った時に読めば良い。
読みたくなければ、読まなくても、それでも良い。
私が、父の言葉が欲しくて仕方がなかったこととは違い、時代も状況も変わっており、私の書いたものが、全く用のないものになっているかも知れないからだ。
また、これから生きて行くお前の障害になっても困るからだ。
しかし、これから先がどうなろうとも、今の私は、大きくなったお前が、母と2人で、この手紙を読むことを考えながら、書き進めることにした。
静かに考えると、死への恐怖と無念のために、夜中に、心臓が一つの生き物でもあるかのように盛り上がり、暴れ回る。腹の中がよじれて行く。
この心の痛み苦しみから自分を解放するために、私は時間の壁を破って、心を遠い過去の世界へ運んだり、遙かな未来へ運んだりする。
過去は、何時でも落ち着いた静かな時間だったし、未来の世界にも、今の私のような波乱はないからだ。
心を落ち着けて、生きているうちに、一字でも多くを書かなければと、唯々書くことのみに集中した。
いくら間もなく死ぬとはいっても、即死ではない。残された時間を最大限に使って、精一杯書き続けようと思った。
書きはじめると、これが生き甲斐になって来た。そして、書きつづけるうちに、今死ぬことに、恐怖も抵抗も感じなくなって来た。
これまで生きて来た身にしては、この世に未練がないとはいえないが、これから、20年、30年、長く生きてみたところで、私の満足などは、そんなに得られるものでもあるまいし、生きていても、必ずしあわせになるとも限るまい。
しかし、ほんの僅かでも、この世に、一人の夫として、父として生きた限りは、それを全うしなければならない責任と義務がある。
私は、この責任と義務とを、手紙を書くことで果たして行こうと考えた。
失敗や敗北や死を、多くの人達は、悲劇と考える。しかし、これまでの私は、そこで与えられた、それなりの時間と条件を存分に活用して、新しい生き方を考え出そうとして来たし、これからも、残された僅かな時間を、自分の思うがままに生きて行きたいと考えるようになって来た。
机に向かって、唯々書き続ける日が続いて来た。
1羽の白い大きな鳥が飛んで行く。
「どこまで行くんだ?」
「分からない」
「どうして飛ぶんだ?」
「分からない」
「分からなければ、飛ぶことなんか、ないじゃないか」
目の前には、晴れ渡った空が広がり、眼下には、青い海が広がっていた。
「俺には、翼がある。
俺は、翼を持った鳥なんだ。
だから、飛ぶしかないんだよ」
飛ぶうちに、晴れ渡った空に雲が湧き、風が出て、静かな海が荒れて来た。
風にもてあそばれ、荒れる波間に叩きつけられた。
それでも飛び上がり、飛ぶことを止めなかった。
「どこへ行くんだ?」
「分からない」
幾度か波に叩きつけられるうちに、隠れていた岩礁で胸を打った。
血が流れ出した。
それでも飛び上がり、翼を広げて飛び続けた。
僅かだった出血は次第に多くなり、体を濡らし、翼を濡らし、白鳥は、血の色に染まって来た。
「そんなに無理して、どうして、飛んで行くんだ?
お前は、自分の飛ぶ意味が分かるのか? 」
「分かるわけなどないじゃないか。
生きていれば、常に動き、翼を持てば常に飛び、脚あるものは歩くんだ。
この世に生きているものは、唯これだけしか分かってはいないんだ。
これは、この世に生きるものの宿命じゃないか。
だから、こうして、飛ぶより他にはないんだよ」
気がつくと、机に顔を伏せて眠っていた。
腕と顔がしびれていた。
ぼんやりしているうちに、また眠っては夢を見る。
体中がしびれて、動けない夢、とめどもなく血液が流れて行く夢が続いて行く。
夢とうつつの世界の境目がなくなる時もある。
疲れているのか、不安と恐怖から来る緊張なのか、落ち着いて眠れない夜が重なると、こんな形ででも、眠れることが嬉しくなった。
そして、いよいよ死期が近づいたと思うと、手紙の文脈も順序も、考えずに書くようになって来た。
他人に愛される人間になれ。
どうしても、協調や妥協が出来なければ、他の人間的な部分で、信頼関係だけは保っておけ。
だからといって、自分の考え方や見方を曲げてはならない。
こればかりは、難しいが、生命を賭けても守り抜け。
しかし、他人の気持ちが分かる、誰にでも温かい人間になれ。
両者は矛盾するようだが、知識を積み上げ、心を磨けば、見事に解け合い、大きな人間が出来上がる。
このためにこそ、訓練、鍛練が、そして試練がある。
認められ、評価されることは歓迎しても、謙虚さは忘れるな。
自惚れの海におぼれた者は、それだけで敗北者だ。
社会にとっては邪魔者だ。
豊かな社会は、怠慢者を作る。
日本は、これから、益々豊かになって行くだろう。その豊かな社会に生きるお前は、ある程度の怠慢は許されることになるだろう。
ところが、それこそが、悲劇の罠だ。
決して怠慢の罠にかかってはならない。
私は、もの心がついてからは、明日だけを求め、明日のためだけに生きて来た。
だから、辛くとも、苦しくとも、明日を考えていればしあわせだった。
その明日を求め、明日の夢のために、ひたすら生きる私を助けてくれた人達は、1人残らず親切だった。温かかった。
だから有り難かった。嬉しかった。
たった今、生きて来た過去を振り返ってみると、私は、良い環境に恵まれて来た。
そして今、この晴れ渡る青空の下、肌をなでる夏風に吹かれながら、素晴らしい妻と息子に囲まれて、静かに別れることが出来るとしたら、何というしあわせな生涯だったことだろう。
有り難う。本当に有り難う。
生きるに越したしあわせはあり得ないが、このまま死んでもしあわせだ。
これからのお前は、母を助け、母と2人で、強く逞しく生きて行け。
……
毎日が忙しい。疲れては横になり、起きては机に向かう日々が続いて来た。
書くうちに、ボールペンを強く握るために、右手が疲れて痛くなる。それでも無理に書き続けると、腫れ上がって熱が出る。
タオルを濡らして、手と腕を包みながら書き続けた。
母からは、私の快復を願って、毎朝神仏に願っているという便りが届いた。
生家から友達から、朝鮮人参や、名も知らぬきのこの粉末などが送られて来る。
私は、すべてに感謝して、有り難く飲まして戴いた。
そのうち、20年程前から書きためておいたメモの整理もしはじめた。はじめると、参考資料が欲しくなって、図書館へ行くようにもなったし、自分の締め切り時間が近いと思うと、ますます忙しくなって来た。
忙しいと感じるにつれて、何となく体力がついて来た。
それにしても、妻は元気になって来た。
私が病気になる前は、肩がこる、胸が苦しいと、仕事から帰った後に、毎日のように肩をもんでやったし、夜中にも眠れないというので、何度も起きて肩をもんでやった。
幾つかの病院や医院へ行ったが、原因が分からなかった。
これが、私が病気になり、更に入院してからは、驚くように元気になった。
これは大きな救いだった。
「あなたのお父さんは、何をしているの? 」
近所の人に聞かれて、息子は即座に答えたそうだ。
「お勉強してるんだよ」
空は、何処までも青く澄み、狭い庭に、朝顔の花が咲き、宿舎の周囲の草原にも、名も知らぬ、小さな花々が咲いては散って行く。
校内の運動場に、校舎に、学生が群れて賑わっている。
ーもしかしたら、このまま治ってしまうかも知れないー
私は考えたが、そんな筈はないと、改めて手紙を書き、メモを整理し続ける日々が続いて来た。
私は、ふと考える。こんなものを書き残すことで、2人には、何かと負担になるだろう。
何も書かず、何も残さずに死んだ方が、2人の負担はないに違いない。
これまで書いた私の記録は、他のものも含めて、すべて焼き払ってしまおうかとも考えた。
しかし、それは自分が生きていれば何時でも出来る。もう少し時間をかけて考えようと、止めていた。
そして、更に書き続けた。
8月から9月が過ぎて涼しくなると、私は更に元気になった。
妻は、私と結婚したのは良いとして、そのまま故郷で生活すれば、親戚や友達に囲まれて、静かな生活が出来たのに、理由もわからずに、こんなに遠くまでついて来て、ついて来た私が死んでしまったら、何のための結婚だったのか、何のための移住だったのかすら、分からなくなってしまうだろう。
これを分からしてやり、満足させてやるのが私の仕事であり責任なのに、私は、それが出来ないままに死んで行く。
長い手紙を書いて、心を落ち着けるなどとは考えても、万策尽きた果ての、窮余の一策でしかない。
それでも、絶望してはならないと、気を引き締めて、出来るだけ机に向かうようにした。
思いついたことは、何でも書くようにした。
遠くまで車の運転が出来るようになると、市内のお寺へ行って占ってもらったり、鍼灸の治療も受けた。
救って下さると考えたものには、何にでもすがりたい気持ちからだった。
そのうち「願いごとが何でも叶うお寺があるから、騙されたと思って行ってみなさい」と、妻がいわれたというので、11月はじめの天気の良い日に、小さなお寺というよりも、ほこらの中に収まっている鯖弘法大師像にお参りした。
教えて下さった方の話では、ここに住む焼き瓦職人が、弘法大師への信仰が厚く、右手に鯖を下げて家へ帰る大師像を作ろうと、自宅の庭に窯を築いて仕事をはじめ、焼き上げて見ると、手に提げた魚が折れて落ちてしまい、なかなか思うように出来なかったが、ようやく出来上がった時には、既に年老いていた。
そこで、この大師像を守り、信仰を続ける日々を送っているとのことだった。
参拝して見ると、大師像は、焼いた時のままに窯の中にあり、前にコンクリートブロックの拝殿を建てた素朴なものであり、前に、元職人の住まいがあった。
ところが、ここで不思議な巡り会いに恵まれた。
私は本が好きで、欲しいと思うと、今読まなくとも、何時かは読めるだろうと集めていたからだ。
それで、お参りしたついでに街へ出て、古書店に寄ったところ、書棚の片隅に、ほぼ1年前の昭和45年8月号の雑誌 文芸春秋があり、定価150円のものが100円になっていた。
表紙を見ると「特集 戦争と人間」とあったので、平和な時代にこそ、厳しかった戦争を考えなければならないのではと、中を確かめもせずに買って来た。
この時読めば、もっと早く知ることが出来たのに、私はそのまま書棚に入れて忘れていた。
暫くして、家内が風邪で休暇を取って寝ていたが、昼過ぎに熱が下がり、起きるのも億劫だが、退屈だから本でも読もうと、頭の上の本棚を見たところ、そこに、この文芸春秋があり、早速取り出して目次を見ると、「ガンと闘う丸山ワクチン 医学界の権威も驚嘆するこのワクチンの効果 三島彰」とあるのを発見した。
読み終わった妻は、早速私のところへ持って来た。
「お父さん。癌の特効薬があったんですよ。
それが、ここに書いてあるんですよ。直るかも知れないですよ。
これを使えば、治るかも知れないですよ」
治るかも知れないとは、何という言葉だろう。
私は、この言葉を聞いて、私もいよいよ駄目なのかと、改めて考えた。
しかし、そんなことを考えている余裕はない。
見ると、確かに大きな記事であり、タイトルの下には、次のように書いてある。
どうして効くかは不明だが、ガンに効くことはたしかだーーー医学界の権威も認め出した丸山ワクチンとは?
更に、次のように書いてある。
「 ……
文芸春秋の、昭和41年11月号に「ガンに挑戦する丸山ワクチン」を紹介してから、早いもので、もう4年にもなった。その間に、このワクチンはどれだけの成果をあげたのか、やっぱり続いて使われているのか、という問い合わせが、いまだにある。このごろ私は、それを書くのに、一種の義務みたいなものを感じるようにさえなってきた。幸い編集部の方にもご了解いただけたので、その後がどうであったかを、いろいろな症例についてお話していきたいと思う。
最初にご紹介するのは皮膚ガンの患者さんである。
…… 」
ここには、当時の常識では考えられない、丸山ワクチンの素晴らしい効果が書いてあった。
私は、朦朧とした頭でこれを読み、考えた。
ーなおるかも知れないー
高熱の続いた後の頭の中に、涼しい風が流れたような爽やかさを感じて来た。
「そうだ。確か田巻さんが、東大の図書館にいる筈だから、電話してみるわ」
妻は、すぐに家中の硬貨をかき集めて、学校の守衛室にある公衆電話まで走って行った。
息子は後を追った。
やがて、荒い息を吐きながら帰って来た。
「お父さん。通じましたよ。
あれから10年も経っていたのに、田巻さんが、東大の図書館にいたんですよ。
運が良かったわねえ。
何か夢みたい」
こうして、1971年11月22日、私ども3人は、新幹線で東京へ行き、上野駅で出迎えて下さった田巻和雄さんに案内されて、日本医科大学 丸山ワクチン研究室の窓口に立つことが出来た。
この田巻さんは、10年以上も前のこと、家内が図書館司書の講習を受けに上京した時に、一緒に勉強した方とのことだった。
(つづく)
