ー2ー
程なく癌センターに着いた。受付の窓口へ行くと、診察券を渡された。
「これは、一生涯使える診察券ですから、なくさないように、大事にして下さいね」 案内されて検査室へ行くと、はじめて行った加賀病 院の田中医師が出迎えてくれた。話を聞くと、検査が終わるのは、明日の午後になるという。
私が中へ入ってしまうと、妻と息子の2人は、用がないので電車で帰って行った。
前日あたりに風邪でも引いたのか、ひどい熱がある。それでも、医師は検査をするという。
検査室の堅いベッドに仰向けに寝ると、左脚の根元の静脈に、太い針を刺して造影剤を送り込み、腎臓の血管を撮影するという。
見ていると、脚の根元には、大分太い針を刺したらしいが、前もって麻酔薬を注射しておくので、痛みは僅かしか感じない。
造影剤の注入をはじめると、ぽっこんぽっこんと、空気を送るようなリズミカルな音が聞こえて来た。一方、X線写真のシャッターを、忙しく切る音も聞こえて来る。
「ああ、ポリープですねえ」
「んー、ポリープだ。これだけのようだねえ」
「他には、何もないようですね」
「ああ、ないねえ。これだけのようだね」
2人の医師の、意味の分からない話が聞こえて来る。
痛みは感じないが、怖さで体中が緊張して、汗が出て来た。
しかし、僅かな時間で検査は終わった。
「ここは、体重をかけて圧迫して、開いた穴を塞ぐんですよ」
癌センターの医師が、針を抜いたばかりの穴の上に、分厚く畳んだガーゼを当て、その上に両手の親指を当てて、暫く押さえつけた。
「これで検査は終わりましたけれども、出血を押さえるために、明日まで安静にしてもらわなくちゃならないんです」
押さえた穴に、もっと分厚い大きなガーゼを当てると、尻のうしろまで包帯を回して固定した。
「こうしておけば、そんなにかからずに、穴は塞がりますけれども、一応は用心のために、24時間は、絶対安静ということになっておりますから、明日まで、出来るだけ動かないようにして下さい」
搬送台に載せられた。
見ると、既にX線写真が出来上がっている。
シャウカステンに次々にX線写真を貼り付けて説明する。
「今、ここから造影剤を入れて、1秒毎に写真を撮りましたら、沢山のポリープが出来てました」
「ポリープって何ですか?」
「これは、小さな水の入った袋ですね」
「それは、取ることが出来るんですか?」
「あまり大きくなったら、潰すことは出来ますが、今はその要はありません」
ここでの説明は、両方の腎臓には、多くのポリープがあるので、今回の出血は、この中のどれかが破れた結果だろうという。
腎臓の癌は、中に走っている血管が、ちょうど蜘蛛の巣のように、一カ所に固まってしまうので、素人にもはっきり分かるが、この写真では、血管が存分に延びているので、癌ではないという。
「癌ではなくとも、これだけの病気を持っているんですから、何かがあった時に、お医者さんに見てもらうように、これを自分で持っていて下さい」
1枚のX線写真フィルムを渡された。
「これからは、半年に1度ぐらいはここへ来て、同じ検査を受けて下さい」
加賀病院の田中医師からも話があり、加賀病院へは1週間に1度通院するようにといわれてX線室を出た。
2人の看護婦に運ばれて病室に入ったが、食事も排泄も寝たままでさせられた。
癌ではなかったと、家で待っている妻に電話をしたいが、自分で動けない体では、どうしようもない。看護婦にお願いするのも、一つの方法かも知れないが、そんなことはせずに、今夜は静かに眠ろうと考えた。
次の朝は、朝食を戴いて暫くすると、ようやくベッドから解放された。
ほぼ同時に、妻と息子がやって来た。
「癌じゃないそうだぞ」
「そう、良かったわねえ」
妻は喜ぶかと思ったが、心から喜んだ顔ではない。
まだ、癌であることを疑っている。というよりも、既に癌と信じてしまっているようだ。
その後は、これまでの仕事を片づけながら、控え目な仕事に切り替えたが、以前のような元気が出ない。
それでも休んでいるわけにも行かずに仕事を続けていると、いきなり腎臓が痛み出し、病院に入ると、腎盂炎との診断が出て、また2日間入院した。
1週間毎に薬をもらって飲んではいるが、いきなり出血することがある。病院へ行くと、すぐさま入院させられて、尿の検査と止血剤で1晩泊まっ
て帰るようになって来た。 入院する度ごとに、何かと聞くのだが、医師は具体的なことは、何もいわない。
こんな日が幾日も続いて来ると、誤診ではないかとの疑いが、更に大きくなる。その疑いを解こうと、9月になったので、大学病院へ行ってみた。
診察室へ入って行くと子供のような若い医師がいた。
彼は、持って行った写真を僅かに見ただけで、すぐに私に返してしまった。
「これはねえ、癌センターの先生が撮られた写真ですから、間違いありません。
癌ではないことが、はっきりしています。
こんなにはっきりした診断を疑って、いちいち別の病院へ行っていては、どうにもならないじゃないですか。
あなたは健康保険本人ですから、お金は出さなくとも良いですけれども、この検査には大変なお金がかかっているんですからね。
この診断は、間違いありませんから、ここで、診察をする要はありません」
私は、僅かな期間だったが、病院で働いて、3千数百枚のX線写真の撮影をしたこともあったし、何千例かの診察や診断も見たし、診療報酬の請求書も書いた。
この仕事の中で、誤診らしいものは幾度も見たし、病院の中ばかりではなく、普段のつきあいでも、誤診の話は幾度も聞いた。
患者は、診断が信用出来なければ、同じ医師に何度も聞くし、納得出来なければ、別の医師を訪ねて行く。
普段の生活でも、道や数を間違えることは幾度もある。これ程の数ではあるまいが、誤診などは、珍しいことではない筈だし、私はそれを幾度か見た。
医師といえども人間だからだ。
これらの誤診が、生命にかかわる問題になる前に、医師か看護婦か、患者自身が気がついて、解決するのは常識だろう。
間違いなどは誰でもするのに、あの先生の診断は間違いないなどといわらたら、かえっていわれた先生が迷惑だろう。
また、そんな話を信用したら、患者の何割かは、誤診のためにひどい目に逢ってしまうだろう。
ましてや、当時の癌の診断は、半分以上が誤診といわれ、ようやく癌との診断が出た時には、手遅れのことが多かった。
診断が信用出来なければ、何人でも医師を訪ねて、最後までねばらなければ、自分の健康は維持出来ない。
これは、患者としては当然だし、是非ともしなければなるまい。
自分の身体は、自分が一番知っているし、自分で守るより他にはないからだ。
だからといって、診察室で理屈を並べるなどの馬鹿ばかしいことはしたくないと、黙って帰って来た。そして、ここまで来たら、もう少し考えてみようと、はじめにかかった加賀病院で治療を続けながら仕事をして、疲れた時には、思い切って休み、新しい仕事を考えようと読書をした。
今のうちはまだ良いが、3人で生活が出来なくなったら、生活保護を受けようかと、妻が市役所へ行ったところ、両親兄弟の承諾書が欲しいと言われたので、それでは、もう少し考えようと帰って来た。
一方、妻は、私が仕事を休むようになると、中部電力や市役所のパートに出たが、これがなくなると、街に新しく出来たスーパーへ行った。
本人は、三階の衣料品売場あたりで働きたかったが、ここにはパートの空きはなく、鮮魚店ならあるとのことで、それも良いだろうと働いた。
ところが、お客さんとの料理の話がはずみ、売り上げが大きく伸びて、営業部長からほめられて、みんなに模範店員として紹介され、全員が見習うようにといわれたそうだ。
「お父ちゃんが、大変な病気なら、せめて旨いものでも食べさしてやってよ」
それからは、鮮魚店の店長が、その日の最高の商品を包んでくれたと、毎日、小さなお土産を持ち帰るようになって来た。
「これなんか、私の今日の日当よりも高いのよ」
本当に感謝しながら食べたが、そんなに旨いものとは思えなかった。まずいとは思わないが、心まで病んでいたためか、以前のように、思わず声に出すような旨さは感じなかった。
そのうち、病院の診断がどうであれ、癌に間違いあるまいと考えられるようになると、定職に就いた方が良いと、幾度か職安へ行った。
ここで、以前に高校の図書館で、司書として働らいていた経験が買われて、1970年10月、運良く国立豊田工業高等専門学校に就職出来
た。この時、人事担当の庶務課長から、そんなことなら扶養家族にといわれて、私はすっかり仕事を辞めて、高専の宿舎に入れて戴いた。
仕事を辞めても、一向に快復らしい兆しはなく、時々軽い出血があり、その都度、2、3日入院した。診察の結果は、相変わらず腎のうほうとい
われて来た。
そして次の年の2月15日の午前2時頃、下腹が張って来た。トイレに行っても、小便が僅かしか出て来ない。幾度もトイレに行ったが、変わらない。膀胱から尿を送り出す尿道は正常なために、膀胱は空っぽだからだ。そして、腎臓の内部が崩れて、腎臓で出来た尿を膀胱へ送る、細い尿管がつまったらしい。
そのうち何とかなるだろうと、逆さまになったり、体を揺すったりして時間を過ごし、妻を送り出し、息子を保育園へ送り届けて寝てみたが、詰まった管は、どうにも抜けそうになくなった。
はじめは下腹部の僅かな痛みだったが、これが次第に激しくなり、文字通り張り裂けそうになって来た。こればかりか、他の部分にも広がり、背筋から腕から、頭まで痛むようになって来た。
2月の寒い風が部屋を駆け抜けるのに、体中が汗まみれになって、布団の上を転がった。 すぐに加賀病院へ行けば、何とか応急手当をしてくれるだろうが、もうあんなところへは行きたくなくなった。
しかし、我慢出来ずに、隣の方にお願いして、学校(高専)にいた妻に電話をして戴いた。
この時、高専の教授が、ご自分の中学時代からの友人が、名古屋市の中京病院の院長をしているからと紹介状を書いて下さり、更に忙しいことだからと、この教授の依頼で、高専の事務職員の永田さんが、休暇を取って、ご自分の車で駆けつけて下さった。
私はいわれるままに車に乗ったが、既に意識は朦朧として、何が何やら分からない。
これから名古屋の街中を通り抜けて、南区南陽町にある中京病院まで走って行けば、1時間以上はかかってしまう。渋滞にでも巻きこまれれば、2時間以上はかかるだろう。それまで、私は生きているだろうかと思いながら、毛布をかぶって後ろの席に横たわった。
待っても待っても、目的地へは届かない。
吐き気を感じて起きあがる。このまま吐けば、車の塗料が傷むと聞いたことがあったので、どうしようかとタオルを出した。
「良いですよ。この車は、もう交換しようと思ってますから、少しぐらい傷などついてもかまわないですから、 遠慮しないで吐いて下さい」
いわれるままに何度も吐いたが、苦痛は一向に軽減しない。この痛みは、耐え難い厳しさだ。病院に着くまで、生きていられるかと疑いながら、白雲の浮かぶ、濁った青空を見上げて、唯々待つだけの時間を過ごした。
着いてみると、話で聞いた以上に大きな病院だ。生きたままで、ようやくここまで来ることが出来たかと思った。受付からもらった説明書を読むと、800もの病床がある。これなら生きられるかも知れないとは思ったが、暫く待たされて、ようやく医師の前へ行った。これで、ようやく助かったと思った。
私の話を聞き、紹介状を読んだ医師は、早速妻を呼んで、隣の部屋へ行った。
「こんなになるまで、どうして放っておいたんだ?」
激しく怒鳴ったそうだ。
妻は説明したそうだが、医師はいったそうだ。
「信じられんな」
しかし、私の前では、静かにいった。
「ここは、患者がはじめに来る病院じゃなくってね、どこかのお医者さんの紹介で来る病院だ。それを、あなたのように、いきなりやって来て、早速入院させて下さいなどという患者はいないんだよ。
だから、今日はこのまま帰って、明日また出直して来なさい」
いわれてみれば確かにそうだろうが、自分で車を運転する力は既にない。妻は運転免許を持っていないし、勤めている。この事情を説明した。
「何とかお願いします。
廊下でも何処でも良いですから、おいて下さるだけで良いですから」
私も妻も頼み込んだ。
「強引だし乱暴だ。しかし、私は医者だ。
そういわれれば、こんな患者を、このままここから帰すわけにも行かんな。
仕方がない。入院させるか」
こんなことで、危機一髪で入院させて戴いた。
送って来てくれた永田さんと妻は、保育園にいる息子のために、急いで帰って行った。
ところが、看護婦に案内されて4人部屋に落ち着くと、ここの医師のはじめの言葉とは裏腹に、医師も看護婦も、検査から治療と、本当に行き届いた手当をしてくれた。
そして、詰まっていた尿管にカテーテルを通して、膨らんでいた腎臓を空っぽにしてくれた。
「これで、右側の腎臓は駄目になったね。それでも左があるから、今のところは安心だ」
右側の腎臓に、しびれを伴った痛みを感じたが、苦痛から解放されて、ようやく眠ることが出来た。
-つづく-
程なく癌センターに着いた。受付の窓口へ行くと、診察券を渡された。
「これは、一生涯使える診察券ですから、なくさないように、大事にして下さいね」 案内されて検査室へ行くと、はじめて行った加賀病 院の田中医師が出迎えてくれた。話を聞くと、検査が終わるのは、明日の午後になるという。
私が中へ入ってしまうと、妻と息子の2人は、用がないので電車で帰って行った。
前日あたりに風邪でも引いたのか、ひどい熱がある。それでも、医師は検査をするという。
検査室の堅いベッドに仰向けに寝ると、左脚の根元の静脈に、太い針を刺して造影剤を送り込み、腎臓の血管を撮影するという。
見ていると、脚の根元には、大分太い針を刺したらしいが、前もって麻酔薬を注射しておくので、痛みは僅かしか感じない。
造影剤の注入をはじめると、ぽっこんぽっこんと、空気を送るようなリズミカルな音が聞こえて来た。一方、X線写真のシャッターを、忙しく切る音も聞こえて来る。
「ああ、ポリープですねえ」
「んー、ポリープだ。これだけのようだねえ」
「他には、何もないようですね」
「ああ、ないねえ。これだけのようだね」
2人の医師の、意味の分からない話が聞こえて来る。
痛みは感じないが、怖さで体中が緊張して、汗が出て来た。
しかし、僅かな時間で検査は終わった。
「ここは、体重をかけて圧迫して、開いた穴を塞ぐんですよ」
癌センターの医師が、針を抜いたばかりの穴の上に、分厚く畳んだガーゼを当て、その上に両手の親指を当てて、暫く押さえつけた。
「これで検査は終わりましたけれども、出血を押さえるために、明日まで安静にしてもらわなくちゃならないんです」
押さえた穴に、もっと分厚い大きなガーゼを当てると、尻のうしろまで包帯を回して固定した。
「こうしておけば、そんなにかからずに、穴は塞がりますけれども、一応は用心のために、24時間は、絶対安静ということになっておりますから、明日まで、出来るだけ動かないようにして下さい」
搬送台に載せられた。
見ると、既にX線写真が出来上がっている。
シャウカステンに次々にX線写真を貼り付けて説明する。
「今、ここから造影剤を入れて、1秒毎に写真を撮りましたら、沢山のポリープが出来てました」
「ポリープって何ですか?」
「これは、小さな水の入った袋ですね」
「それは、取ることが出来るんですか?」
「あまり大きくなったら、潰すことは出来ますが、今はその要はありません」
ここでの説明は、両方の腎臓には、多くのポリープがあるので、今回の出血は、この中のどれかが破れた結果だろうという。
腎臓の癌は、中に走っている血管が、ちょうど蜘蛛の巣のように、一カ所に固まってしまうので、素人にもはっきり分かるが、この写真では、血管が存分に延びているので、癌ではないという。
「癌ではなくとも、これだけの病気を持っているんですから、何かがあった時に、お医者さんに見てもらうように、これを自分で持っていて下さい」
1枚のX線写真フィルムを渡された。
「これからは、半年に1度ぐらいはここへ来て、同じ検査を受けて下さい」
加賀病院の田中医師からも話があり、加賀病院へは1週間に1度通院するようにといわれてX線室を出た。
2人の看護婦に運ばれて病室に入ったが、食事も排泄も寝たままでさせられた。
癌ではなかったと、家で待っている妻に電話をしたいが、自分で動けない体では、どうしようもない。看護婦にお願いするのも、一つの方法かも知れないが、そんなことはせずに、今夜は静かに眠ろうと考えた。
次の朝は、朝食を戴いて暫くすると、ようやくベッドから解放された。
ほぼ同時に、妻と息子がやって来た。
「癌じゃないそうだぞ」
「そう、良かったわねえ」
妻は喜ぶかと思ったが、心から喜んだ顔ではない。
まだ、癌であることを疑っている。というよりも、既に癌と信じてしまっているようだ。
その後は、これまでの仕事を片づけながら、控え目な仕事に切り替えたが、以前のような元気が出ない。
それでも休んでいるわけにも行かずに仕事を続けていると、いきなり腎臓が痛み出し、病院に入ると、腎盂炎との診断が出て、また2日間入院した。
1週間毎に薬をもらって飲んではいるが、いきなり出血することがある。病院へ行くと、すぐさま入院させられて、尿の検査と止血剤で1晩泊まっ
て帰るようになって来た。 入院する度ごとに、何かと聞くのだが、医師は具体的なことは、何もいわない。
こんな日が幾日も続いて来ると、誤診ではないかとの疑いが、更に大きくなる。その疑いを解こうと、9月になったので、大学病院へ行ってみた。
診察室へ入って行くと子供のような若い医師がいた。
彼は、持って行った写真を僅かに見ただけで、すぐに私に返してしまった。
「これはねえ、癌センターの先生が撮られた写真ですから、間違いありません。
癌ではないことが、はっきりしています。
こんなにはっきりした診断を疑って、いちいち別の病院へ行っていては、どうにもならないじゃないですか。
あなたは健康保険本人ですから、お金は出さなくとも良いですけれども、この検査には大変なお金がかかっているんですからね。
この診断は、間違いありませんから、ここで、診察をする要はありません」
私は、僅かな期間だったが、病院で働いて、3千数百枚のX線写真の撮影をしたこともあったし、何千例かの診察や診断も見たし、診療報酬の請求書も書いた。
この仕事の中で、誤診らしいものは幾度も見たし、病院の中ばかりではなく、普段のつきあいでも、誤診の話は幾度も聞いた。
患者は、診断が信用出来なければ、同じ医師に何度も聞くし、納得出来なければ、別の医師を訪ねて行く。
普段の生活でも、道や数を間違えることは幾度もある。これ程の数ではあるまいが、誤診などは、珍しいことではない筈だし、私はそれを幾度か見た。
医師といえども人間だからだ。
これらの誤診が、生命にかかわる問題になる前に、医師か看護婦か、患者自身が気がついて、解決するのは常識だろう。
間違いなどは誰でもするのに、あの先生の診断は間違いないなどといわらたら、かえっていわれた先生が迷惑だろう。
また、そんな話を信用したら、患者の何割かは、誤診のためにひどい目に逢ってしまうだろう。
ましてや、当時の癌の診断は、半分以上が誤診といわれ、ようやく癌との診断が出た時には、手遅れのことが多かった。
診断が信用出来なければ、何人でも医師を訪ねて、最後までねばらなければ、自分の健康は維持出来ない。
これは、患者としては当然だし、是非ともしなければなるまい。
自分の身体は、自分が一番知っているし、自分で守るより他にはないからだ。
だからといって、診察室で理屈を並べるなどの馬鹿ばかしいことはしたくないと、黙って帰って来た。そして、ここまで来たら、もう少し考えてみようと、はじめにかかった加賀病院で治療を続けながら仕事をして、疲れた時には、思い切って休み、新しい仕事を考えようと読書をした。
今のうちはまだ良いが、3人で生活が出来なくなったら、生活保護を受けようかと、妻が市役所へ行ったところ、両親兄弟の承諾書が欲しいと言われたので、それでは、もう少し考えようと帰って来た。
一方、妻は、私が仕事を休むようになると、中部電力や市役所のパートに出たが、これがなくなると、街に新しく出来たスーパーへ行った。
本人は、三階の衣料品売場あたりで働きたかったが、ここにはパートの空きはなく、鮮魚店ならあるとのことで、それも良いだろうと働いた。
ところが、お客さんとの料理の話がはずみ、売り上げが大きく伸びて、営業部長からほめられて、みんなに模範店員として紹介され、全員が見習うようにといわれたそうだ。
「お父ちゃんが、大変な病気なら、せめて旨いものでも食べさしてやってよ」
それからは、鮮魚店の店長が、その日の最高の商品を包んでくれたと、毎日、小さなお土産を持ち帰るようになって来た。
「これなんか、私の今日の日当よりも高いのよ」
本当に感謝しながら食べたが、そんなに旨いものとは思えなかった。まずいとは思わないが、心まで病んでいたためか、以前のように、思わず声に出すような旨さは感じなかった。
そのうち、病院の診断がどうであれ、癌に間違いあるまいと考えられるようになると、定職に就いた方が良いと、幾度か職安へ行った。
ここで、以前に高校の図書館で、司書として働らいていた経験が買われて、1970年10月、運良く国立豊田工業高等専門学校に就職出来
た。この時、人事担当の庶務課長から、そんなことなら扶養家族にといわれて、私はすっかり仕事を辞めて、高専の宿舎に入れて戴いた。
仕事を辞めても、一向に快復らしい兆しはなく、時々軽い出血があり、その都度、2、3日入院した。診察の結果は、相変わらず腎のうほうとい
われて来た。
そして次の年の2月15日の午前2時頃、下腹が張って来た。トイレに行っても、小便が僅かしか出て来ない。幾度もトイレに行ったが、変わらない。膀胱から尿を送り出す尿道は正常なために、膀胱は空っぽだからだ。そして、腎臓の内部が崩れて、腎臓で出来た尿を膀胱へ送る、細い尿管がつまったらしい。
そのうち何とかなるだろうと、逆さまになったり、体を揺すったりして時間を過ごし、妻を送り出し、息子を保育園へ送り届けて寝てみたが、詰まった管は、どうにも抜けそうになくなった。
はじめは下腹部の僅かな痛みだったが、これが次第に激しくなり、文字通り張り裂けそうになって来た。こればかりか、他の部分にも広がり、背筋から腕から、頭まで痛むようになって来た。
2月の寒い風が部屋を駆け抜けるのに、体中が汗まみれになって、布団の上を転がった。 すぐに加賀病院へ行けば、何とか応急手当をしてくれるだろうが、もうあんなところへは行きたくなくなった。
しかし、我慢出来ずに、隣の方にお願いして、学校(高専)にいた妻に電話をして戴いた。
この時、高専の教授が、ご自分の中学時代からの友人が、名古屋市の中京病院の院長をしているからと紹介状を書いて下さり、更に忙しいことだからと、この教授の依頼で、高専の事務職員の永田さんが、休暇を取って、ご自分の車で駆けつけて下さった。
私はいわれるままに車に乗ったが、既に意識は朦朧として、何が何やら分からない。
これから名古屋の街中を通り抜けて、南区南陽町にある中京病院まで走って行けば、1時間以上はかかってしまう。渋滞にでも巻きこまれれば、2時間以上はかかるだろう。それまで、私は生きているだろうかと思いながら、毛布をかぶって後ろの席に横たわった。
待っても待っても、目的地へは届かない。
吐き気を感じて起きあがる。このまま吐けば、車の塗料が傷むと聞いたことがあったので、どうしようかとタオルを出した。
「良いですよ。この車は、もう交換しようと思ってますから、少しぐらい傷などついてもかまわないですから、 遠慮しないで吐いて下さい」
いわれるままに何度も吐いたが、苦痛は一向に軽減しない。この痛みは、耐え難い厳しさだ。病院に着くまで、生きていられるかと疑いながら、白雲の浮かぶ、濁った青空を見上げて、唯々待つだけの時間を過ごした。
着いてみると、話で聞いた以上に大きな病院だ。生きたままで、ようやくここまで来ることが出来たかと思った。受付からもらった説明書を読むと、800もの病床がある。これなら生きられるかも知れないとは思ったが、暫く待たされて、ようやく医師の前へ行った。これで、ようやく助かったと思った。
私の話を聞き、紹介状を読んだ医師は、早速妻を呼んで、隣の部屋へ行った。
「こんなになるまで、どうして放っておいたんだ?」
激しく怒鳴ったそうだ。
妻は説明したそうだが、医師はいったそうだ。
「信じられんな」
しかし、私の前では、静かにいった。
「ここは、患者がはじめに来る病院じゃなくってね、どこかのお医者さんの紹介で来る病院だ。それを、あなたのように、いきなりやって来て、早速入院させて下さいなどという患者はいないんだよ。
だから、今日はこのまま帰って、明日また出直して来なさい」
いわれてみれば確かにそうだろうが、自分で車を運転する力は既にない。妻は運転免許を持っていないし、勤めている。この事情を説明した。
「何とかお願いします。
廊下でも何処でも良いですから、おいて下さるだけで良いですから」
私も妻も頼み込んだ。
「強引だし乱暴だ。しかし、私は医者だ。
そういわれれば、こんな患者を、このままここから帰すわけにも行かんな。
仕方がない。入院させるか」
こんなことで、危機一髪で入院させて戴いた。
送って来てくれた永田さんと妻は、保育園にいる息子のために、急いで帰って行った。
ところが、看護婦に案内されて4人部屋に落ち着くと、ここの医師のはじめの言葉とは裏腹に、医師も看護婦も、検査から治療と、本当に行き届いた手当をしてくれた。
そして、詰まっていた尿管にカテーテルを通して、膨らんでいた腎臓を空っぽにしてくれた。
「これで、右側の腎臓は駄目になったね。それでも左があるから、今のところは安心だ」
右側の腎臓に、しびれを伴った痛みを感じたが、苦痛から解放されて、ようやく眠ることが出来た。
-つづく-
