そういえば 書くのを忘れていたと思いだしました。続きを書いてしまおうと思い立ちました。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
さて、彼とも別れ、友人でいようねとなり、
また一人で頑張っていた。
占いも頑張り、毎日15時から夜中2時まで
電話鑑定。ひっきりなしの電話で
いろんな力を磨いた。
昼間はヒプノを頑張り、毎日1、2件
これもまた、私の奥まで突き詰めたい感覚に
マッチしていて、毎日のヒプノが
とても楽しかった。

母として生きる。
そう決めていたから、なにも気にしなかった。
辛いとも、悲しいとも思わなかった。

睡眠時間は常に4.5時間 
でも、これは元カレといた時に
八時間寝ていた私が4.5時間に変えられた
一つの収穫。寝る時間が減ったから 
ショートスリーパーになり
時間を有効に使えるようになったのは
大きなる収穫だった。

あの家にいて、釣りだ、家事だと
完璧を要求するかれに応えていたら
寝ないのが当たり前になってしまっていた。

三人暮らしになった最初は 
ただひたすら働いた。
最初はまずいろんなアルバイト
知人の手伝い、プロの掃除屋さんや
ゴルフ場のイベントのお姉さん。
並行して占い師になるための準備。
まずは占いの腕がさびているかもしれない
毎日占いを勉強し始めた。
最初の半年、みっちりとやった。
自信を取り戻してから
電話の鑑定会社に登録した。
そのころは霊視ができると思っていなかったが
鑑定しはじめると 
視えてることに気がついた。。
電話の向こうにいる相手が
視えるようになっていった。

それをヒプノにも使えたので
仕事の精度を上げていった。

電話鑑定では一日も休まずに12時間勤務を
八か月働きTOP鑑定士になる。
リピーター率100%を何か月も続けた。

ある程度大丈夫と言うところで
ペースを少し落として並行して
昼間の対面鑑定を始めた。
そしてその対面鑑定の延長線上に
ヒプノとレイキヒーリングを取り入れた。

そして、星占いや四柱推命を深めた。
また、ホットストーンマッサージなども
勉強したりした。

鑑定ができるように一軒家を借りて
そこで仕事を始めた。一年後には
札幌の円山というところに事務所を借りて
活動も始めた。
16畳ワンルームの部屋は快適だった。

そしていろいろやってるうちに
ある人とミクシーで知り合った。

最初からすごいインパクト

歳はかなりな歳下だったけど
彼のページにある奈良の秘境に惹かれて
その場所はどこかという質問をしてから
メッセージの交換が始まった。

そして同じころ、広島の子と電話鑑定で知り合い
ヒプノをしに行くことになった。
大阪を中心に広島や関西方面の仕事が増え
行き来をするようになった。

その男の子は行動力がすごく
神社めぐりも大好きで奈良の人間なので
歴史を網羅しているような子だった。

そのころから神社めぐりが始まった。
仕事で関西から西方面に行くたびに
神社を回ると言うことを始めた。
まずは奈良、秘境という秘境に
連れて行ってもらい
素晴らしい案内役をしていただいた。

そして、それもそのはず、彼は熊野の一族
ヤタノカラスの一族で末裔だった。
霊感もすごく、一族が霊感もちのような家庭。
彼の父と彼は本当にいろんなことが
視える人だった。
私は霊をダイレクトに見ないので
額の上のイメージ画像に映り込むので
わかるタイプだけど
彼らはダイレクトに視えるタイプだった。
でも霊感があるからこそ
私のことも力も理解してくださった。

当時はただひたすら、神社参りと
仕事にまい進していた。
関西と札幌を行ったり来たりしながら
ひたすら仕事をしていて
一日も休むことがなかった。

しかしそのころから、私の体は
悲鳴を上げていて、咳が止まらなくなっていた。
人の負を背負う仕事 
レイキを入れガードしたつもりでも
負の方が大きいのだろう。
一日のほとんどが仕事
どんどん蝕まれていた私の体
人は弱いところにその症状は出る。

咳は止まらなくなり
毎日かかりつけの病院に行っていた。
毎日毎日、咳止めのフステンという注射を打つ。
薬がいたいのでおしりに打たれるような薬。
毎日痛みと戦っていた。
注射と吸入の毎日。

咳の発作がおきると、
吸入器を使用していてもダメで、
ステロイドの注射をうつ。 
三か月持つと言われても
発作が起きないだけで咳は出る。
咳止めを切らせない。
吸入器を持ち運びしながら
働く日々だった。
でも一家の主・・
子供たちのために頑張らないと・・
責任だけがそのことを遂行する力だった。

そんなある日 限界が来た
娘の高校入試の日 
朝起きてお弁当を作らないといけないから
夜中遅くまで仕事をしていたのだが
起きれなくなると困るし
送り出してあげたかった。
寝ないで起きたまま送り出した。
その日も休めず、仕事をこなしていた。
翌朝、コンコンと咳が止まらずに目が覚めた
コンコンは一つも止まらず
息を吸ったあと、
吐く息がすべて咳になった・・。

二階にいる子供たちを呼ぼうにも
咳が止まらないので声もかけられない
這って部屋を出て倒れこんでいた 
初めて死ぬかもしれないと思った・・。

耳の良い娘が階段を駆け下りて来て

「ママ!救急車呼ぶね!」

遠くから救急車のサイレンを聞きながら
助かったと思った・・。

病院でステロイドの点滴を打たれ
発作は収まった。

専門医に行くとドナーカードを渡された。

「私は好酸球性肺炎のドナーです。
このカードを見たら救急車を呼んでください。
ステロイド〇〇mlの点滴をしてください」

と書いてあるものだった。

その当時好酸球の値は  
通常 0-6という数値のところ
40という数値だった。
その先は「死」好酸球性肺炎を含む 
症候群で命を落とす場合もあると言う。

治さないと・・

いろいろ調べたら 
専門医が二か所見つかった。
相模原と大阪

大阪はいつも行く、ならば
大阪の病院に行こう。

2005年の12月 大阪に部屋を借りて
治療もかねて住むことにした。
同じ行き来でも楽なはずだ・・

そうして大阪に住むようになった・・。