北海道に帰り、少し遊んでいたけど
こころはやはり、重かった。
この時は別れた夫に申し訳ないという
罪悪感があったように思う。

しかし昔の金融機関時代の仲間たちが
心配してくれ、来てたり、励ます会をしてくれたりありがたかった。
元上司達も、仕事を斡旋してくれ
すぐに仕事が決まった。
元いた職場の子会社に入った。

仕事も資格試験は大変だったけど
猛勉して損害保険の特級資格も取れた。 

子供のころからやっていたお茶、お華と
ピアノをまた、再開しながら
仕事に精を出していた。。

この頃、神社で雅楽を学び
吉備楽という、無形文化財になっている
舞と祭典の雅楽の琴を習う様になった。

お琴弾くのは楽しかった。
神社の正式な形を学び、昔の歌や琴や、
笙や篳篥などの真剣な奉納を垣間見て
益々、神ごとの重要性、歴史、祭祀の
大事さを学んだ。
日々の神ごとにも精を出し
祝詞修行は続けていた。

そんな中、いくつかお見合いの話が
入ってきた。
その中でお見合い話  
母の職場の同僚の親戚だという方からの紹介

S市の消防士で家もある。
また、次男だからよいのでは?とのこと。
元舅で懲りていた私は 
次男という言葉の響きにちょっと惹かれた。

お見合いをするとなかなかの好青年
野球が好きで、自分でチームをつくり
監督もしているという。
試合も見に行った。
人望も篤そうな人だなと思った。

恋愛として先にある出会いではないが
頼もしいのと仲良くできそう、
家庭を持てそうな感じだなと思った。

親にあっても、ごく普通によいご両親だし 
数ヶ月付き合って再婚を決めた。
互いにバツが付く者同士
真面目にしっかりした家庭を
築こう!と思っているのも一緒だった。

そして結婚、
夫の持ち物のマンションを売って
すぐに家も建てた。

最初は特に問題はなかった。
楽しく暮らしていた。

最初の溝は娘が生まれたあとだった。
借金があると告げられた。。50万
昔からのが積み重なったんだという。

まあ、仕方ないと貯めたお金で支払った。
そこから 夫は少しづつ自分を出すようになり
いままで見えなかった面が見える様になった。

気に入らないと強い態度で文句を言う。
無視するという態度に出るようになる。

パチンコから帰らないということも出てきた。
ストレスもあるのだろうと  
見逃してきたけれど
親のいなかった私には 
娘を省みない夫にいら立ちを覚えていた。
しかし、まだ我慢できる範囲だった。

そして二人目をどうしても欲しいと
男の子を産んでくれと土下座をされ
年子はキツいから嫌だというわたしに
手伝うから、面倒見るから頼むと言い、
言い出したら聞かない主人。

娘の断乳をしてすぐに授かった。
念願の男子。
息子は体が弱く大変だった。
口約束は守られず、
夫は何一つ面倒を見なかった。

ほとんどがパチンコ その生活が彼のすべてだった。

息子はいまになって
PFAPA症候群という 
周期性発熱症候群 という
自己免疫疾患だとわかるが 
当時はわからず
一週間おきに熱の出す息子の面倒におわれ
どんどん心が痛んでいた私でした。

しかし負けてはいけないと 
必死で家庭を支え
夫のご機嫌を取り 
子供二人の世話をこなしていた。
ワンオペも甚だしく
たまに母に来てもらい助けられていた。

しかし、息子が生まれてからというもの
体調は良くない
寝汗をかき夜七時には
一緒に寝てしまうような生活だった。
疲れは取れず、怠さと闘っていた。

あまりにひどいので病院に行きたいから
子守を頼むと、嫌そうな顔をされ
職場の健康診断で家族も該当するからと
頼んでくれた。
しかしひと月待ち・・
すぐに病院にかかりたいくらいなのに 
ひと月とにかく我慢をした。

そして健康診断。その時に言われたのが
甲状腺がんの疑い
そしてそれは現実であちこち再度見てもらい
11月私は、手術をすることになった。

母に来てもらい、子供を見てもらいながら
安心しながら病に向き合えてありがたかった。
感謝しかない。

手術後夫は、麻酔さめやらぬ私に 
医師から病状を告げられて
戻ったその足で私に伝えた。

「間違いなくガンだったから 
じゃ俺は寝てないので寝に帰るから」

と、かえってしまった・・ 
手も握ってくれないし
励ましてもくれない。

さすがに笑ってしまった。
そうよね そういうひとだもの
あきらめに似た気持ち。
でももう仕方ないの心境で
がんであることを受け入れた私だった。

神任せはありがたい 
ただひたすらありがとうと言いつづけ
神に祈っていた。
私は信仰という柱があったから
どんな時もめげずに入れたのかなと思う。

特定の宗教じゃない
私たちが共通して
畏敬の念を持つ大いなる存在に対してだが
その思いは私を救った。

わたしは病室でも、
朝は朝日に向かって祈りを続けていて 
同じ病室の人たちが
真似してお参りするようになった。
日拝を教えて、一緒に祈っていた。

病室のみんなとはどんどん仲良くなった。
和気あいあいな病室だった。

無事に退院して家に帰った。
子供たちのはしゃぎ様に
こころが癒された。

それからは体調を気遣い 
気を付けて生きるようになっていた。

がんは一年以内に再発するであろうとの
医師の診断だった。取りきれないリンパ節が
あり、取ったリンパ節は
全て癌に侵されていたそうだ。
何かあれば再発を疑いびくびくしていた。

がんの手術の時に、
これで長年悩んで作った塊が取れたんだから
もう絶対癌にはならない!と
決めた宣言を自分にまでして
良かったとおもった手術だったのに
気にするようになる自分も嫌だった・・。

ある日気にしすぎている自分が
本当に嫌になった。
病気になるのでは?再発するのでは?と
思うからいけないんだと
手放そうとおもった。

手始めになにかしようとした。
常は保険の会社の時に 
面接士という資格を取り
非常勤で保険の契約時に健康確認をして
調書を提出するという仕事をしていた。
非常勤なので働きやすかった。
毎日働くとかではないので続けられた。

ただ、なにかしたいと考えていた時
ひと月だけ、友人が宅急便の 
お歳暮の配達をしないかと行ってきた。

そんな!私ができるの?

でも、でもやってみよう! 
春には子供達を連れてディズニーランドに
行く約束だったし
旅をグレードアップさせられるし。
一ケ月ならできるかも!
なぜだかそうしたかった・・チャレンジ

そして ひと月一心に働き
25日間働けた。病気にもならずに
辛くもなく
荷物を喜ぶお客様の笑顔を 
喜びとして
そして働けたことに感謝した。

そして私は病気であることを手放した
もう気にしない。私はもうがんにはならない 
そう自分に宣言した・・。

それから
がんは一度も再発していない
あれほど 半年から一年のあいだに
再発すると言われたのに・・
すでに癌保険にも入れた。


生きているということは 
自分ですべてを決められることなのだと思った。