去年
ポリアモリーの
取材を受けたとき
ポリアモリーが
独り歩きしていることを
取材の中で
話しました。
わたしは
ポリアモリーです。
そう表現した先にあるのは
あ〜
ポリアモリーね。
なんか知らんけど
不倫を正当化してるやつでしょう。
あ〜
なんか
自分の都合のいいように
言ってる人たちでしょう。
そんな
決めつけがついてくる。
昔きた相談で
すごく多かったのが
旦那が急にポリアモリーで生きるからと
宣言されてわたしはどうしたらいいですか?
でした。
いやいや
わたしもわからんし。
奥さんの意見無視なの?
話し合いはないの?
それがポリアモリーなの?
わたしだったら
『ふざけんな』って怒るよ。
大切な人を大切にしたい気持ちから
ポリアモリーって概念が
産まれてきたものなんじゃないのかな?
当事者のわたしでさえ
ポリアモリーとはって
概念すら
わかってないのに
あれ、わたしだけかな?
みんなも
わからないのは
自然なことなんじゃないのかな。
だからね
ある時から
ポリアモリーの
西山裕子です。
という
表現をやめました。
わたしの生き方の中に
たまたまポリアモリーという
生き方が
あっただけで
ポリアモリーの枠に
わざわざ入る必要もないし
そもそも
ポリアモリーの枠におさまるのが
わたしらしくない
そう思ったからです。
いや
ポリアモリーに
逃げるのを
やめようと決めたんです。
ポリアモリーにも
メリット、デメリットがあって
二人の人を好きになって
どうしていいのかわからなくて
苦しんで
もがいて
自分をたくさんたくさん
せめてきた人には
そんな生き方もあっていいんだ。
自分の枠を外して
自分を生きるきっかけになる。
でもね
それがいつしか
ポリアモリーという枠に
苦しんでいくことにもなる。
あ〜
ポリアモリーね。
その枠で
見られてしまう。
わたしという
中身ではなく
ポリアモリーという
名前でひとまとめにされる。
わたしが
そうでした。
いままで
守られてきたはずの枠が
いつかは
自分を縛る枠になる。
だからね
ポリアモリーって
一つ生き方として捉えるぐらいが
ちょうどいいのかもしれない。
自分の中の一つ。
娘である。
妻である。
母である。
主婦である。
ポリアモリーである。
特別なことでもなくて
でもわたしの大切な個性の一つ。
だから
大切なのは
わたしの中にある
目にはみえないけど
ちゃんとある
大切な人を大切にしたい
思いであったり
大切なものを
大切にする様であったり
生き方
在り方を
育んでいくこと。
そこは
どんな人にも
平等にあるものなんじゃないかな。
ポリアモリーでも
ポリアモリーじゃなくても
結婚してても
結婚してなくても
離婚してても
再婚してても
子どもがいても
子どもがいなくても
仕事をしてても
主婦してても
お金をもっている人も
お金をもっていない人も
ぜんぶが
自分の中の一つであって
それだけが
すべてではないってこと。
そんなんで
価値はかわらない。
大切にしたい
モノもヒトもコトも
みんな違うんだもん
見えてるものだけで
決めてしまうのもったいない。
見えてるものだけで
判断するのもつまらない。
大切なのは
いま
大切なモノを大切にできてるか。
いま
大切なヒトを大切にしてるか。
いま
大切なコトを大切にできてるか。
それだけなんじゃ
ないのかな。
いま
あなたは大切にできてる?
家にこもる時期だからこそ
できる向き合いってある。