全ては自分の判断で、そしてその全ての責任を自分に。



上司と上手く行かない、会社が嫌だ。でもそれは上司が悪いわけでもなく、会社が悪いわけでもない。ただ、上司と上手くあわせることができない自分が、その会社を離れることができない自分が、自分こそに全ての責任があって、上司、会社に対して負の感情を抱くのではなく、自分に努力が足りないということを認め、それを改善しようと努力し解決できる。与えられている環境が不満である。そうなったときは、自分に能力があるのならば別の選択肢を自分で選べばいいし、自分に能力がないのなら自分をその環境に合うように変えるしかない。自分に与えられる物事は、それが相応だと客観的に判断されている結果。本当に能力があり、それに不相応な職場環境だったなら、外へ目を向ければもっと良い環境を簡単に手に入れられる。



彼女のここが納得いかない、不満だ。これも彼女が悪いわけではない。それを不満と思ってしまう自分が、その彼女と付き合っている自分が、自分にこそ全ての責任がある。納得行かない部分を無理やり変えようなどという無理難題を成し遂げることは難しい。人が変わることは容易くない。けれど自分が変われない責任が自分にあることは明白。彼女は彼女であって自分ではない。彼女が自分に対してとる行動は、それが相応だと彼女に判断されている結果。全ての言動を受け入れてよく考え、不満に思うのならどうすればいいのか考え自分が変わればいい。受ける行動が自分に対して明らかに不相応だと思うのならば、恋人関係を解消し、新たな出会いを見つければいい。



さすがは自分の人生なだけあって、自分で今を変えることが出来るし、自分で今とは別の道を選ぶことができる。けれどやっぱりそれにはそれ相応の努力が必要となる。全ての責任は自分に。

「人は一人で勝手に助かるだけ」とはよく言ったもんだ。



人は一人では生きられず、嬉しいことがあれば誰かに伝えたくなり、上手く行かないことがあれば誰かに愚痴をこぼしたくなる。その愚痴り方の選択肢が今や本当にたくさんあり、今その場において自分が一人であったとしてもそれが可能であり、可能であるから絶対に愚痴をこぼす、ストレスを発散する衝動からは逃げられない。今こうして地元を離れ、友達が周囲にいない環境に身をおいているけれど、寂しいと感じないのはネットを使っていつでも友達とコミュニケーションを取ることができる環境にいるからであることは間違いない。今住んでいる地域にも当然自分以外の人は存在するけれど、それに意味はなく、結局自分が望む人と繋がっていなければ意味がない。

きっと、日本大好きな俺でも、ネット環境さえあれば海外であってもやっていける。しかし、それは俺がどうこうしたから可能、不可能なのではなく、ネット環境があるからでしかない。ネットでの繋がりが当たり前となっている今の時代において、自分が望む、愚痴をこぼせる、嬉しかったことを共有したいと思える程の間柄の人を異国の地で新たに作るのは俺には不可能。挨拶、世間話程度しかできない人しかいない環境で生きていくのも不可能。だから声を大にして言える、「ネット依存症である!」と。結局のところ、みんなネット依存症だ。こういうコミュニケーションに関わる、何かしらの新しい快感、満足感を人に与えるツール、方法を確立したら儲かると思うんだけど、誰かいい案ありませんか。



人は歳を取るとどんどん気力が失われてきてしまうもので、いろんなことがどんどん面倒になってくる。小さい頃は新しく友達を作るなんて造作もないことだったのに、次第に新しく作ることではなく今までの交友関係を維持することに依存、頼るようになってしまう。そして愛する人と結婚をして、子どもでも授かったりする年代になれば、きっとその交友関係はたまに会って楽しむ程度になるんだろう。じゃあ自分の周りが全員そうなった場合、自分がまだ交友関係に依存する生き方をしていたとしたらどうなるのか、それはもうそのときネット環境があったとしても、ネットのない海外にいるのと似た状態なのではないか。



現在、先進国においては少子高齢化が酷く、未婚率はどんどん上昇していて、いろんな学問的、政治的に考えてもこれを打開することは非常に難しい。けれど、意外と近い将来、一生を共にする結婚相手を持たず、子どもも持たずに生きるということが、ネット環境を持っていても凄まじく寂しく無味乾燥したものであるということが、未婚に対する侮辱だ!差別だ!人権侵害だー!などと馬鹿みたいに騒ぐ負け組みの悲鳴を上回って一般常識となったりしたりして、お金がないから結婚できない!ではなく、多少貧しかったとしても愛する人と生きていくことの幸せには換えられない、とみんなが思って未婚率の増加、少子化は止まるんじゃないか、とか思ってる。この超楽観視は、今後近い将来は夢物語でしかないけれど、世紀単位での遠い未来、きっと現実になる。はず!



さっさとタバコにさらなる強烈な税金をかまして全てを子育てにかかる費用の無償化のための財源にするべき。結局のところタバコが嫌い。


「家事育児をしない男性をゼロにするための政策に予算をつける」


「でき婚した旦那がすぐキレて別れたい」


前者は少子化担当大臣の発言、後者はそこらへんの掲示板への書き込み相談タイトル。どっちももう取り返しの付かない程に頭が悪い。こんなno brain大臣に期待するより、夢物語に期待するほうがよっぽど現実的だ。この人に何とかしてもらおう、そんな期待は抱いた分だけ100%全てが無駄になる。




誰かに何とかしてもらおうというのは間違ってない。けれど結局全ては自分にある。助かるも助からないも、変わるも変わらないも、得るも失うも、何かに頼ったにしろ頼らなかったにしろ自分がそう本当に強く望み、考え、行動しなければ何も意味がない。誰が助けようが、どこにいようが、あなたはあなたであり、結局のところあなたはあなたでしかない。

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。



2013年がどうであったか、なんていうのは年末が近づくにつれて誰もが考えることであり、ましてや年をまたいだ今さらすることでもないだろう。けれど1年を振り返ってどうであったか、なんてことに大した意味はなく、本当に大切なのはその時、その一瞬をどう考えるか、こそが大事。


何か行動を取った時、それには必ず結果が付いてくる。過程こそが大事、やることに意味がある、なんていうのは義務教育までの子どものやる気を削がないよう、言いくるめるための都合のいい文句だ。現実は、過程から必ず得られる結果こそが大事であり、その過程により大まかに分けていい結果と悪い結果の2つに分かれる。


結果というものは絶対に変えられない。塗り替えることはできるかもしれないけれど、それは新しい結果を作っただけであり、過去のその結果はそのまま残ってしまう。だから結果は受け入れる以外選択肢がない。いい結果であれば幸せ、悪い結果であれば不幸せだろう。けれどその結果について、それだけではなくもっとよく、もっと深く考えるべきだ。


いい結果を得られた時は、純粋に喜ぶだけで何一つ不都合なく幸せに事が済む。けれど、いい結果を得られたということは、何かしらそうなる要因がそれまでの過程にあったことは間違いない。ただただ喜ぶだけではなく、何故いい結果を得ることができたのか、ほんの僅かな時間であっても考えることはとても大切だ。


悪い結果となってしまった場合は、塗り替えられないのだから愚痴をこぼしたり、後悔などしても意味がない。けれどその代わり、大いに反省をすべきだ。どうして悪い結果となったのか、よく考え次に生かさなければならない。


失敗を経験して人は成長していく、とかなんとか、そういう言い回しがあるように、失敗した場合の反省の重要性は言うまでもない。失敗した原因を見つけ出さなければ、同様の失敗を再現することが目に見えている。一方、成功した理由は、別に見つけ出さず、次にそれを生かさなかったからといって失敗するとは限らないために、失敗した場合の反省に比べて重要度は低くなる。けれど、それを見つけ出し、心に留め、次に生かせば成功する可能性は高い。


結果が生まれたその時、その瞬間、それに対してよく考えることができる人は、失敗から成功を生み出すだけではなく、成功から成功を生み出すことができる。


と思うのです。だから、よく考える、これが2014年の目標。





非常に残念なことに、時間というものは本当にどうすることもできない。だから、その時、その一瞬の"過去"について、よく考えることは重要であるけれど、今より先の"未来"について考えることはそれと同等かそれ以上に大切なことだ。それを考えずに得られた結果が、時間の経過という取り返しのつかないものに左右されなければ問題はないけれど、もしそうでなかった場合、その結果を得た後どんなによく考え、最良の答えを導き出したとしても、時間の経過分マイナスからスタートすることになり、その差分を覆すには途方もない努力と強烈な運が必要になってしまう。

けれど、"未来"というものは非常に疎かにされがちであることは言うまでもない。いい年をした大人であっても、忙しい今に必死で先々を考える余裕などない、などと言い訳をしてないがしろにする。"未来"が近いであろう高校生、大学生であっても、分からないから仕方ない、と考えることの放棄が半分、現実的に不可能であることが半分。子どもであっても、いずれテスト勉強をしなければいけないという"未来"があることを知っていながらもゲームに夢中になり後々時間がなくなる。こんなのは幾度となく、身を持って経験してきた。


"未来"を疎かにされがちなのは、"未来"が今ではないため、今その瞬間に実害が伴わないからだ。しかし、その"未来"について考えることを疎かにし、自分がその"未来"に行き着いたとき、望むものと違い、時間の制約によって取り返しがつかなかったとき、そこを基準に考えることしかできない。アイデンティティという言葉は非常に重要であり、かつ非常に便利な言葉であって、その取り返しがつかなかった末の基準にいる自分を「私は私だ」と言いのけてしまえば、それができるのであれば何も心配はない。けれど、もし未来についてよく考え、何をすればいいのかをよく考え、実行して迎えた"未来"はその上を行くことは確実だ。


奇跡は起こらないから奇跡なのである。よって絶対に起こらない。思い描く"未来"は偶然手に入るものではなく、考え、行動し、自分で手に入れるしかない。


と思うのです。だから、よく考える、これが2014年の目標。