炊き出し、無償支援物資(4/19) 赤前小学校編 | 粘着されまくり

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粘着されているので、基本放置です。

4月19日(火)に、岩手県宮古市立津軽石小学校、及び宮古市立赤前小学校へ、炊き出しや無償救援物資の提供などを行って来ました。


参加したメンバーはMixiコミュ「頑張ろう!いわて」 メンバーなど、計10名です。

メンバーの居住地は神奈川県、東京都、千葉県、宮城県、及び岩手県と多くの地域から賛同者を得ることが出来ました(感謝)。


以下、極力時系列的に記載します。



何故、赤前小学校 へ行ったのか?を冒頭に記載します。


津軽石小学校の避難所では、無償支援物資の引き取りを辞退されたからです。

それは同避難所には物資が比較的豊富にあり、且つ自衛隊の支援物資置き場まで整備されていたからです。


同避難所内の物資①

日々つれづれ

 

同避難所内の物資②
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同避難所内の物資③
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自衛隊が設営した物資置き場

日々つれづれ



メンバーが、神奈川、東京などで集めた無償支援物資を満載した、ワンボックスカー2台分、及び自分の車に詰め込んだ物資(Mixiコミュ「頑張ろう!いわて」 で支援頂いた物資含む)の行き先を失ってしまいました。


そこで津軽石小学校と「川(津軽石川 )」を隔てたところにある、赤前小学校 へとメンバー全員で向かいました。

津軽石小学校と赤前小学校とは姉妹校であり、僅か1~2kmしか離れて無く、車で5分もあれば到着する位置関係にあります。


当然?津軽石小学校とは異なり、行政を通じての公式ルートでは無く、事前アポも取ること無く突撃訪問しました。

まさかそこで、幾多のドラマが繰り広げられることになることなど、全く想像すらせずに。



14:40頃、宮古市立赤前小学校へ到着(全10名)

宮古市立赤前小学校
日々つれづれ

先ず避難所へ行き、責任者の方へ当方の身分を明かし、訪問の趣旨を伝える。

その後、赤前小学校の現実を知ることになる。

赤前小学校 避難所(体育館)での避難者数は、130名。


『物資が無い(≠少ない)』が第一印象だった。

その避難所の責任者は宮古市役所の職員だったので、色々会話を重ねる。

当方から物資の話を持ちかけたところ、帰ってきた返事は「お願いします」だった。


そこで東京・神奈川組と、自分の車から全ての物資を避難所(同校体育館)へと搬入し確認して貰う。

食材、ゲーム、雑誌、女性用サニタリー用品、お菓子ほか、取り急ぎ車3台分の物資を提供。


第1回目の提供物資(一部)
日々つれづれ

避難所の方は、何処の誰が来たのか分からない状態ながらも、素直に喜んで頂き、正直安心した。


そこで赤前小学校の副校長(女性)が登場!(超フレンドリーチョキ


右側:赤前小学校副校長、左:我々のメンバー
日々つれづれ

次に我々は、同避難所で「何が、どの位不足しているか」の聞き取りを行うものの、遠慮されてほとんど何も言わなかった。


そこで必殺技?に出た。

「お金はたくさんあるから、全く気にしないで下さい」と、当然『嘘』であるが言ってみた。

そうしたところ、遠慮がちではあるが、必要としている物資の「もの」や「数量」などが、止めどなく出てきた。

それらを全てメモに残し、最寄りの大規模スーパーへと神奈川部隊が買い出しに行った。


神奈川・東京部隊は『募金の透明性』を疑い、地元で有志を募り「必要としているところへ、必要とされている物資を提供する」ことを趣旨に、ある程度の『委託金』を預かっていた。

そのお金が今回の物資提供や、炊き出しなどの『原資』として大活躍した。


そこで最初のドラマが始まる。

StudioRocco 仙台のおっちゃん、突然車が故障してエンジンすらかからなくなる。

その時の天気は土砂降りの雨から雪に変わっていた。

車のヒューズやリレーを確認しても異常は見つからず、そのままJAFを呼び最寄りのディーラー送りになる。

が、JAFが到着するまで諦めること無く、ずぶ濡れになりながら懸命に故障箇所を探していた(約1時間)。

翌4月20日(水)はStudioRocco 仙台のおっちゃんは仕事なので、その日のうちにどうしても宮城県へ戻らなければいけない事情があったのである。


そうしているうちに、買い出しに行った神奈川部隊が赤前小学校へ戻ってきた。


ニーズに応じ、追加購入した物資

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大根10本、納豆2箱(段ボール)、肌着(男女、各20着)、ズック、歩行困難な老人専用靴(各10足)、味噌10kg、だしの素2箱(段ボール)ご飯のおかず、ほか多種多様なニーズに合致しているものだけ。


ある意味「買い占め」に抵触するかと思うが、避難者のためにという思いで購入した物資。


全てがニーズに合致したものだけなので、避難所の方や、市役所職員、副校長など、素直に喜んでくれた。


ふと気がつくと、全員が猛烈にお腹が空いていることに気づく。

そして我々10名の遅い昼食が始まる(17:00頃)

避難所の方が我々の食事を用意してくれると言ってくれたが、そんなことを行ったら本末転倒になるのは全員承知しているので、丁重に辞退した。


我々の昼食(軒先を借用し、ぶっかけうどん)

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旨かったな~


そして18:00頃から、当日第2弾の炊き出しが始まる。

事前に何も説明すら行っていないのに、非常に礼儀正しかったのが印象に残る。


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ここで寝たきりで、毛布を頭まで被っている人に気づく。


毛布を取って、呼びかけても、揺すっても、何にも反応が全くなかった。

「あれっ」と思い、頸動脈で脈を測るも正常、呼吸をしているかその人の顔に自分の耳をよせたら呼吸はしている、瞼をめくり瞳孔反射を見るも反応はある、アルコール臭も一切しない。


そこで念のため、備え付けのAEDを用意すると同時に常駐している医師を呼びに行った。

医師二名と看護師一名が駆けつけてきた。


看護師は真っ先に自分が取った行動(上記)を行った後、採血し血糖値を調べるも正常値。

血圧も正常値。血中酸素濃度も正常値。


だが医師や看護師が呼べど揺すれど、その人は全く反応が無かった。

そこで医師は、周囲にいた人たちへ、その人の病歴や様子などを尋ねていった。


しばらくするとその人は、突然目を開けて、いきなり立ち上がり、意味不明な行動・言動を取り始めた。

その後再度、布団へ倒れるように寝込み、呼べど揺すれど起きることは無かった。


医師とは別に自分も周囲の人たちに、その人の日常の様子を尋ね回った。

そこで自分が医師たちに向かい「てんかんの発作では?」と言った。


数分後、医師の診断は「てんかんの発作が濃厚」と告げた。

次に医師は「明日まで様子を見よう」と告げ、その場を立ち去った。

幸い命に支障を来すような症状では無かったから、本当に良かったと思った。


医師が立ち去る際、自分に「看護師か何かがお仕事ですか?」と聞いてきたので、「ただの患者です」と答えたら笑っていた。

自分が気管支喘息や心臓の発作を起こしたとき、いつも医師や看護師に行われていたことが、今回多少なりとも役に立ったのであろうか?


当然のように上記一連のことは、避難所内の混乱を避けるために、隠密に行った。

当方のメンバーは自分の行動に気づいていたが、混乱を避けるために敢えて素知らぬふりをしていてくれた(感謝)。



避難所での食事を終えたら、避難所にいる小中学生たちvs,神奈川・東京部隊の対決?が始まった。


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バスケットボール対決から始まり、最後は野球対決をしていた。

みんな童心に返り、半ば本気になりながら戦っていた?のを、赤前小学校副校長や、StudioRocco の二名と、爆笑しながら見ていた。


そんなこんなをしているうちに、時間は20:00を過ぎていた。


「もう帰ろう」と東京・神奈川部隊に告げたところ、彼らはとたんに?本気になり、逆転サヨナラホームランを放ち、半ば強制的に試合を終わらせた(大人げなかったかな?)。

だが何故か東京・神奈川部隊が勝ったはずなのであるが、試合終了後に集まったときは、赤前小中学校チームが勝ったことになっていた(大人の対応?)。


そして帰路につく。

我々が見えなくなるまで笑顔で手を振り続けてくれていた、小中学生たちや副校長の姿を見て、逆に我々の方が『元気を貰った』のは言うまでも無い。


「絶対にまた来よう」と堅く心に決めた瞬間でもあった。


帰路は国道106号線を通り、全員で最寄りの温泉浴場 に入った。

中にいたのは我々以外は、全て自衛隊の人たちだけだった。


帰路は『大変』の一言に尽きる。

9cmの積雪に加え、外気温は氷点下であった。

当然、神奈川・東京部隊、StudioRocco  千葉のおっちゃん、自分の車、全車ノーマルタイヤだった。


積雪や凍結の恐れのある路面では、自分が先頭を走り、盛岡に近づくと雪が無かったので、自分は最後尾を走る。


道の駅区界高原 で休憩。これが後に裏目に出ることになろうとは。。。

日々つれづれ


StudioRocco と東京部隊の車、2台を先行させる。

先頭はStudioRocco  千葉のおっちゃんの車。


自分以外は雪道など走り慣れているわけが無い。しかも全車ノーマルタイヤだし。


「ICのそばでハザード点けて待っている」と言う言葉を信じ、自分と神奈川組は盛岡南ICに到着するも、通りすがりにハザードを点けている車は見当たらなかった。


先行した千葉のおっちゃんは、道路標識を見る余裕すら無く、本来左折するべき所を前に走っていたバスにつられ、まっすぐ行ってしまい、それに東京組が追走する。

そう「いっぱいいっぱい」だったのである。


自分と神奈川組は、自分の車が先行していたので道を間違えることは無かったのだが。


迷子?になった千葉のおっちゃんと電話をし、「周囲に何が見えるか」をことごとく言って貰った。

それで自分は迷子?の2台の居場所を突き止めることが出来た。


帰りに全員で盛岡の、びっくりドンキーへ寄り、ハンバーグを食べながら打ち上げを行った。

別れ際に一人ひとりと固い握手をした。

このとき時間は、25:00を過ぎていた。


東北自動車道 盛岡南ICから高速に乗った際は自分は最後尾を走る。

みんなが間違った方向へ行かないように、見守っていた。


みんなが東京方面へ走っていることを確認し、盛岡南ICそばのオービスを通過したとたん、自分はアクセルベタ踏みにして急加速。

そしてハザードを点けながら、神奈川組、東京組、StudioRocco 組を抜き去って走り過ぎた。


自宅に到着したのは、25:30を過ぎていた。


心地よい疲労感と共に眠りについたのは、27:00近かった。


翌日は疲れ果て、ほぼ一日中寝ていた。


本日は消化器科の定期通院日だったので、病院へ行ったところ医師に無条件で点滴をやれと言われ、点滴を行って来た。

おかげでその後は体調が戻ってきたような気がする。


あ~、年は取りたくないもんだ。と、自分の体力の無さを痛感した。



最後に、

4月19日(火)だけで炊き出しを行った人数の積算(単純に)は、456名になった。

津軽石小学校、赤前小学校共に、初めての炊き出しだったという。

この日だけで約370km車で走ったが、自衛隊、パトカーはかなりの頻度で見た。

が、肝心の「瓦礫撤去作業」を行っている光景は一度も見ることは出来なかった(自衛隊含む)。

当然、ボランティア活動をしていそうな人も一切見られなかった。

これが『ボランティア過疎地』の現実だと思い知る一日にもなった。




→ 次号、総括編へ続く(これが一番大切なことを記載します)