2016年8月6日。実家に帰って早一週間。

夏休みという休日の連続が7日を超えた。

父と母は法事に行き、一日一人で家に居た。

そんな日の夜、日をまたいだところでふと浮かんだことをここに書いておこうと思う。

 

読む前に一つ。

この文章は個人的なものであってすべてが正しいとは限らない。曲の作者の意に反するものかもしれないが、”自分はこう思った”ということが書いてある。悪しからず。

 

夜寝付けない時に[Alexandros]のサテライト・真夜中の二曲だけが入った『ひととき』というプレイリストにいつもお世話になっている。

サテライトでうとうとし始めて、真夜中のほぼラスト、「こうやって、うたにしている」という歌詞と共に寝落ちるのがいつもの流れだ(したがって深夜に真夜中を最後まできいたことがなかった)。

 

今日は朝から友人たちとオンラインで会話しながらイラスト作成をしていたということもあり、ほぼ一歩も動いていないのにも関わらず疲れていた。それゆえに夕方の6時から3時間ほど寝てしまった。

そして、夜。妙に目が冴えていて違和感を感じる。家族は眠りについてしまい、家にはほかの人がいるのに、自分だけが目覚めている状況になった。実家にいるにも関わらず、一人暮らしをしている六畳のワンルームを思い出してしまう。

明日にも予定が控えている、寝なければと思って、寝ころび、アラームをセットし、いつものプレイリストを再生する。

いつもならば眠気が漂ってくるサテライトもしっかりと聞けた。真夜中が自動的に再生され始める。

 

真夜中が流れ始めると、むしろ覚醒に近づいた時に似た感覚に陥った。結局最後まで聞き入ってしまい、眠ろうという努力をするのを止めた。理由はわからないが、なんだか普段より歌詞が響いた。

 

 

真夜中という曲は東京近郊(確か都内ではなかったが)に住んでいる時のボーカル、洋平さんの心情を描いた曲だったと記憶している。

私の住む片田舎では高速の音が聞こえることもないし、白いソファもないが、まるで自分のうたのように感じる。

『誰かれの歌を流してみる/胸の中身その歌に重ねてみる/けれど/どこか物足りない/誰も代弁してくれない』

『誰かに「何か」伝えたいけれど/声が出てこない』

『「言葉」の数と/「思い」の数はもう/二度と合わない所まで来た』

こういった歌詞が実にグッとくる。しかもこういう歌詞のところに限って高温で、せつなげに歌うからずるい。

 

自分以外の誰かがつくった歌に100%同調することはない。作成者が他人である限り自分と全く同じ環境、同じ生活、同じ価値観を持っていることはないからだ。

この曲もそうだ。私は東京に住んだことはないし、「誰か」である「君」という存在に向けた歌を歌ったこともない。それでも、この曲はあたかも自分の曲であるかのように感じる。

『誰も代弁してくれない』という歌詞で私の心を代弁してくれていると、そう言いたい。

 

真夜中 に 一人

という単語を合わせてきたのもずるい。

この曲をもし歌謡ショウをにぎわせた誰かに作詞させて、似たような歌詞を綴ってきたとしても、「一人」にはならない。「ひとり」や「独り」といった表現に落ち着くだろう。

私ならば、この曲を聞くまでにこの草案・原案を見ていたら「ひとり」という言葉を充てる。

歌詞カードを見ることを前提に作詞をするのを私は好まない。

音楽は音楽で帰結するものであって、聴覚のみで鑑賞するものではないが、音楽は所詮「音」だ。空気の振動でどれだけの感情を表現するかということに重きを置くべきだと私は思っている。メロディラインと音作りがすべてであり、「ひとり」という言葉は一人でも独りでも「ひ・と・り」という三文字で表現されるのに差はない。

しかし、この曲では「一人」が再現されていると感じる。(完全に受け取る個人の問題だが)

下手に深い意味を持ち合わせていない、敢えてそうすることで日常、通常の中の倦怠感や言語化するのが難しいニュアンスをうまく、率直に表現できていると思う。

 

この曲の主人公は「一人」だけで、真夜中に。

 

さらにこの曲の作詞について上手い!と思ったところはこの歌には「歌を歌っている」情景は描かれていない。

「歌でもうたっていよう」「歌にしている」と、声を発して、音を響かせていたというのが確実な表現は存在しない。

これがニクい!

『胸の音を吐き出したい/誰かに「何か」伝えたいけれど/声が出てこない』といったように音を出そうとしていてもそれが現実に存在する「音」として登場しないのだ。

これが先も述べた日常の中の言語化が難しいニュアンスをうまく表現している。

 

 

『真夜中』には外から与えられる、環境音しか存在しない。

自分で生み出した、生み出さんとした音ははっきりとした輪郭を持たない。

この静けさの中で何を思うだろうか。『一人だけ/真夜中に』。

 

 

 

 

追記:

初めてこの曲を聞いたときはこのバンドを知った直後だった。(確かRun Awayが発売する直前くらい)

YoutubeでFor Freedomを聞いたときに一目ぼれ(?)し、Waitress,Waitress!やKill Me If You Canが入っていた「Schwarzenegger」を初めて購入した。

そのアルバムは全13曲。通して聞いていて5曲目のKiss The Damageにも惚れ惚れした。(今でも大好きな曲だ。)

このアルバムは、というかこのバンドのアルバムはまさにジェットコースターで、このアルバムについては「徐々に上げられたと思ったら滑らかに落ち着いたゾーンに突入しそこを一気に掻き立てられてうわああ!あがりきってしまう!となったところでまた落とされる。もう終わる?と思っていたらこのアルバムで一番高いと思われるところまで連れていかれて…」で1-12曲目を走る。

12曲目もリードトラックでとても良い曲なのだが今回は飛ばしておこう。

それで、だ。最後に『真夜中』。

全てを持っていかれた。

13曲目で「このアルバムという作品は完結しました。」と告げられたかのように思えた。

名前のないエンドロール。

この言葉が最も適していると思う。

アルバムの作者であるバンドメンバーの名前も、バンド名も出てこない。ただ夜の暗闇にぼうっと自分が存在している。自分だけが名前のないエンドロールを眺め、その主人公であった。うまく表わせられないがそういうふうに感じた。

追記にも関わらず長くなってしまった。別の機会にアルバムレヴューでもしようと思う。

一人だけ。真夜中に。

私が死に等しく恐怖を感じるものがある。それは「飽き」だ。

某刀剣ゲームのびっくり鶴さんみたいなことを言うが、事実そう考えている。

では何故、恐怖を感じるのか。吐き出し口も見当たらないので世間の目に触れる機会が少なくともあると考えブログサービスを利用し、徒然と書き連ねていこうと思った次第。なのである。

 

あくまでも私感からの話であり、根拠もなければ根源もない。ただ浮かんでは消えていく思考をメモ書きしているだけである。黒歴史になるのは間違いない。

 

 

 

 

さて、本題について。『「飽き」と「驚き」について』つらつらと書いていくこととしよう。

 

まず、「飽き」について。

多すぎたり、同じことが長く続いたりして、いやになる。
十分に味わったり経験したりして、それ以上欲しくなくなる。

とWeblioさんには書いてあった。

ゲームプレイや日常生活にて使われる飽きの大概は新たな他のものに興味を持ったからだと私は考える。私がそうだから、というのが根拠になるとは思えないが自論を展開しているだけだしこれが公の場の論題されているわけでもないからそこは見逃してほしい。

 

例えばゲーム。先日ポケモンGOがリリースされた。人々はこぞってインストールし、ゲームをプレイした。

そして現在。システム上の問題もあってか、飽きたという声がたくさんあるという記事を多く見る。これは間違いである。(断定はできない、私観での話。)

人々はいつから「ポケモンGOにハマった」と言ったのだろうか。プレイヤーの大多数は「ポケットモンスター」という日本のアニメ、ゲーム史上でかなりの知名度と人気を持ち続けている一つのコンテンツに着目しただけであって、「ポケモンGO」というゲーム自体に興味を抱いたものは少ないと思われる。また、多くは話題作りや流行に乗ってみた、等といったゲームをプレイしたことで生まれる会話や他人との言葉を介さずとも理解しあえるような知識を得るためにといった目的の下、無自覚にプレイしていたといっていいだろう。

元来他人との協調に重きを置く日本文化なら尚更だ。ハイコンテクスト文化である限りはこういった流れに沿って行動を起こすことは至極当たり前なものとして残り続けるだろう。

一時期バズった(インターネット等で爆発的に流行した)ものの飽きはこういう理由が多いように思う。

 

また日常生活における「飽き」については、これは「驚き」と絡めて話を進めていきたい。

人間は安定を求める傾向にあると言っていい。敵がいない、不安定でない、一定の生活頻度や環境を保っていられることを好むと言えるだろう。日常という毎日の行動の繰りかえしが最も人間らしい生活ができると言えるのは安定した、他人に定義されたわけではないが、「ふつう」に則った規則正しい行動がとれるということに安心感を覚えているからかもしれない。

ところが人間は面倒なことに全く同じことの繰り返しをしていると最悪病んでしまう。私は精神科医でもなんでもないのでその発端がどこにあるとかメカニズムがどうとかそういったことはわからないが毎日一分一秒規制された生活の中に安心を得られないことは安易に想像がつく。決まった流れで、少しずつの変化がなければ人間は生きていけないのだろう。

例えば、歯を磨くとき。今日はいつもより水が冷たく感じるだとか、そろそろ歯ブラシも交換の時期だ、とか。そういったたわいもないことが少しずつ積み重なって日々に変化をもたらしている。

 

日々に変化をもたらしている話はこのへんでもう十分なのだが日常生活における飽きについて全く語れていないことにこの段階で気づく。

少しずつの変化があってこそ日常だということはここまででわかっていただけると大変うれしいのだが如何せん語彙力も文章能力も欠けているので読んでいただいている方に申し訳ない。

まあ良い。それで、だ。日常を繰り返していく中でふと「飽き」に似た症状を覚える。

それは「驚き」を求めたものだと思う。繰りかえしの安泰な日常にほんの少しのスパイスを求める。それが「飽き」に似た症状だ。

レジャー施設がどうして潰れないのか、何故国家的にも必要とされているのか?というのを講義で聞いたことがある。内容はなんにせよ人々には休息という刺激が必要で、それを提供することを業務とする人間もまた必要だからとかなんとか言っていた気がする。

つまりはそういうことだ。「どうしてレジャー施設へ足を運ぶのか?」と聞かれれば「友達と遊ぶため」「みんなで行くのに都合がいい」なんていった表面上での理由しか返答はない。しかし人々は心の奥底で日々へのスパイスを求めて足を運んでいると言っていい。

ここではレジャー施設を例に挙げたが、現代においてそれは物質として存在しなくても良い。パソコンの画面に広がるインターネットの海も十分にその代用と成り得る。

日常生活には絶対に起こり得ないことを体感することで人々は驚きを提供される。それは幸か不幸か人々が日常に戻るために必要ではあるが、また驚きを求めるきっかけにもなる。

生まれた時に母のぬくもりや電灯の明かりを求めるように人には刺激は不可欠である。

 

つらつらとここまで書いてきたが要するに「飽き」等は存在しない。全ては似通った別の名状し難い感情や思いを「飽き」という日本語を代用して表現しているだけだ、と言いたい。

 

ここからは本当に自論だ。

 

私は「飽き」に対して死とも等しい恐怖を感じると述べた。

これは、私が未だ「飽き」という「飽き」を体験したことがないからであろう。

人は未体験のものに興味を持つとともに恐怖を覚える。宇宙人や神や悪魔といった存在が例に挙げられる。

私の恐怖とは、「飽き」というものが来た瞬間に心の死が同時に来てしまうのではなかろうか、果たして「飽き」を自覚したときに自我・感情を私は有しているのだろうか。それは生きているといえるのだろうか、という恐怖である。

また同時に日々に「驚き」を求めている。大層なものでなくていい。道端の花が咲いていた、だとかいつもと違う角を曲がって帰ろうか、なんていう少女マンガちっくなものでいい。

毎日自分の知らないものや知っているものの変化を見て、自分自身がアップデートされ続けなければ安心できないのだ。

言葉の深淵は計り知れない。飽きという言葉について強く語ったが驚きという言葉も無限の可能性と広い定義を持つ。

自論を延々と展開してきたが日常生活についても、また言葉についても面白いことがあれば私に教えてほしい。と思っている。

 

皆さまの日々のスパイスの一端にこの文章がなれば幸いです。

 

 

 

 

おまけ:

飽きという言葉の対義語は「凝る」という言葉だそうだ。

誰が考えたか知りようもないが面白いと思った。

暇なときには先に挙げた対義語についてでも思案を巡らせてくれるとうれしい。