徳川吉宗が、享保の改革の
一環で設置した「目安箱」。
これに肖ってか。
武家屋敷や商家や旅籠や、
驚く事に長屋までにも。
私設の「目安箱」が置かれた。
幕府が設置した「目安箱」
への投書は。
住所と氏名の記入は、必須。
そして、私恨に絡むものは
破棄されていた。
だが、
私設の「目安箱」への投書は。
匿名でも私恨でも、なんでも
有りだった。
神田川に架かる「昌平橋」
界隈を「旅籠町」と呼ぶ。
ここは、
中山道と日光街道の、
分かれる処。
江戸を出る者、江戸に着いた
者の為に。
必然的に旅籠が建ち並んだ。
旅籠「都わすれ」の女将。
昔は、女博徒。
「小桜おせん」の名を、
関東八州に轟かせた姐御。
長月のある日。
「都わすれ」から道を隔てた
旅籠「旅情」の目安箱に。
ある告発状が、投函された。
「都わすれ」が、近ごろ丁半
賭博を開帳している。
隠れ賭博は御法度のハズ。
所轄の、柳原堤番所の
役人は同心も岡っ引きも、
女将からの賄賂で口を噤
んでいる。
差出人は匿名で、「浮世草」
と書かれていた。
大江戸八百八町。
隠れ博打場は、五万とある。
一々取り締まってなんて、
いられないのが実情。
だが隠居の岩志。
女将「小桜おせん」の名に、
若いころの上州を思い出し
ていたのだ。
■
隠居の鰊真岩志。
元は、南町奉行所の同心。
家督を息子の亜治に譲り、
悠々自適の隠居暮らし。
岩志の出生地は。
上野国「上州」。
父親は、高崎藩主に仕えた
下級武士「足軽」。
岩志は、元服まで上州育ち。
父親の江戸屋敷勤務に伴い、
江戸へ移り住んだ。
たまたま機会があり、
町奉行所の下働きの職に。
持って生まれた「探偵魂」
が功を奏し。
三十歳を待たずに、
本来なら御家人職の同心に
足軽のままで、異例の昇格。
その後、
大岡越前守が南町奉行に
就任。
大岡は、老中を説得し。
岩志の身分を、御家人に変更
する許可を取り付けるも。
岩志が、これを固く辞退。
退任するまで、足軽同心を
通した。
ただし、幸いにも。
息子の亜治への家督継承に
合わせ。
鰊真家の身分は、
正式に御家人となった。
「小桜おせん」の名を、
告発状で目にした岩志。
若き時代の、上州が甦った。
■
江戸から、上野、信濃、美濃、
近江、そして京へ繋がるの
が中山道。
上野には七つの宿場がある。
中でも城下町の高崎宿は、
一際賑わっていた。
岩志は15歳で元服。
それまでの幼名は「鰯丸」。
元服して間もなく、鰊真家は
江戸へ移り住むことが決ま
った。
だが、岩志は高崎を離れたく
なかった。
理由は、単純。
「おせん姐さん」と、
離れたくなかったから。
鰯丸が初めて博打場を覗い
たのは、十三歳のとき。
そこは、高崎宿の端の旅籠。
蝋燭の灯に浮かぶ、
長さ二間の盆布の中央に
座る女子。
手にはツボとサイコロ。
片肌、立膝姿で。
「入ります!」
の一声。
目を凝らすと、
「背中に散らした 桜の花は
さらし木綿の 肌に降る
壺をひと振り この啖呵
上州訛か 小桜おせん
恋の采の目 蚊帳の外」
「女伊達らに 立膝組めば
八百八町の 花となる
関の八州 旅がらす
誰が名付けた 小桜おせん
恋の丁半 雲の中」
鰯丸は。
蝋燭の炎に揺らぐ、
「白い指先 紅あと」
に、
一瞬で心を奪われたので
あった。
それからと言うもの。
鰯丸は、
新町宿、倉賀野宿、板鼻宿、
安中宿、松井田宿、坂本宿、
そして高崎宿と。
上州中山道の、
七つの全ての宿場を。
逢いたさ一心で、
「おせん」を追っ掛け
たのだった。
当時おせんは、
鰯丸より5つ年上。
だから、今では。
それなりの年齢のハズ。
それでも、
岩志の脳裏に浮かぶ
「小桜おせん」の姿は。
あの頃のまま。
「ご隠居さん、先程から。
ぼんやりして、何か変よ。
私達への指令は、なあに」
と、昼立が再び急かした。
(つづく)
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■
主な登場人物(適宜掲載)。
▶鰊真岩志。元・町同心。隠居探偵。
▶鰊真亜治。息子。南町奉行所の町同心。
▶鈴屋双丸。岩志の友人。長屋の大家。
▶大岡越前守。南町奉行所の町奉行。
▶平次。岡っ引き。
▶徳川吉宗。8代将軍。
▶すず。饅頭屋の看板姉妹の姉。
▶もも。饅頭屋の看板姉妹の妹(弟)。
▶昼立。元平尾宿の女郎。次女。
▶朝立。元谷中の女郎。三女。
▶ウニ。岩志の家内。
■本作は、フィクション。
登場する地域・人物・組等の名称・
写真イラスト等は、実在のと無関係。
諸制度や時代考証などの齟齬、
ご容赦。
■添削・校正なしで配信。誤字脱字
ご容赦。
鰯の頭
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