下げ緒の事 | ほろほろ草子

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年末の話です。

警護を職務にしている友人と会った。彼は、下拙と同様に神道流系の流儀宗家三代目でもある。

そんな彼が、刀の「下げ緒のとりまわし」の話を聞いてきた。

刀の下げ緒とは、ひらたく言うと刀の外装(拵)に付いている「紐」の事。
元々、刀は帯に差して携帯する物ではなく、「太刀」という形でこの下げ緒を使い、文字通り腰に下げていた。
その、名残とも言える。

残れば(もしくは、残る理由があれば)、ただの飾り以外にそれなりの使用方法も出てくる。
時代劇などを観ると、戦いの前に下げ緒を外し、襷紐として用いたり、捕縛の際の捕縛縄代わりに用いたりした様子が描かれる。

で、この下げ緒。
現代に於て、刀を帯刀(腰に差した)時の扱いに関して、「どう処理するか?」といった内容に、結構多種多様な意見をお持ちの方がおり、それこそネットで検索すれば、色々な意見が挙げられている。

そんな中で、彼は「神道流系のやり方」と言う事に興味をもったようだ。
そこで、下拙なりに改めて考えてみた。

みたが、

「色々な要素があり過ぎて、一概には言えない」
「学ぶ流儀の教えに従い、その様式がどの様に成り立ったのか意味を知っていれば、それで良いのではないか」

となってしまった。
まあ、そんなものだろう(笑)

先に、述べておくが、上記が今回の結論。
これ以後は、そのとりまとめとなる。

さて、いつも思うが、これに限らず、日本の文化民俗の類を「これが唯一正解!」と言い切れる事は余り無いと、下拙は考える。

まして、日本の刀剣文化は、飛鳥期以前から明治期の廃刀令、そしてそれ以降現代にまで、様々な変遷を経て続いてきた文化である。
その長い歴史を考えたら、この下げ緒の話も、そう簡単には決めつけられないだろう。

ならば、下拙は言いたい。

『日本刀の刀身の姿も、時代の変化と要求で形を変えているのに、下げ緒のとりまわしのみを不変唯一として議論、可否を問うのは、あまりに難しくないか』

刀身の変遷同様に、その時代時代の在り方でやり方が有るのではないか、と。

今回の主となる、「下げ緒」をつけ、帯に差して携帯する仕様の日本刀の外装である、「打刀拵」だけで考えたとしても、様々な変遷を促す要素がある。

そして後述するが、打刀拵だけでも、その長短等によって、更に細分化される要素もある。

だが、それだけに、大袈裟に言えば流儀の業のみならず、

『流儀の古伝作法も、時代や流祖の思想を映す鏡』

とも、言えるのではないだろうか。

もし、そうならば、尚更、現代に於いて、一括りにする事には、「それぞれの、時代や流祖の思想を物語る特徴の抹消」という、危惧が発生するのではなかろうか。それは、刀が身近でなくなった現代の人間が、歴史を冒涜する浅慮・エゴではないか。

そう、下拙は私見する。

その私見を踏まえた上で、話の流れを戻す。

刀や刀装具の変遷は、当たり前だが時代時々の文化に追従する。

元和偃武(げんなえんぶ)等は、その前後で世の中の変わり方が、大きい分、その変遷も同様と推測出来る。

それは、細分化すれば、身分や地域でも異なる。ならば「武士」と「侍」でも、また、諸藩様々に己を取り巻く環境が異なり、様相も違うのではないか。

ましてや、戦国大名や藩主を主君と仰がぬ、武芸者、兵法者なども含めたら、大変である。

これらを総括すべく、江戸幕府は、「武家諸法度」等の触をだし、幕府および諸藩に仕える者の諸々取り決めを定めた。
幕府の法定として、全国諸藩はそれに従う。その内容は、服装の規定にも及ぶものであった様だ。ならばそれは、「腰の物(刀)」にも適用される。
事実、「刀の定寸」や「登城の際の拵」「大小刀を二刀帯刀する」等が、細かく定められた。

そう考えると、
「下げ緒のとりまわし方」<「腰の物の規定」<「服装規定」
となり、より広範囲の調査が必要となると、下拙は考える。

一例として、今も残る参勤交代の図等の当時を垣間見られる資料があるが、参勤交代の絵図で、行列の人間の拵や下げ緒の「とりまわし」が一様なのは、それら法定に拠るものと考えられる。図が正しいとすれば、これは、「参勤交代の際の服装規定」としての「幕府の公式な下げ緒のとりまわし」である。

確かにこれは、下げ緒のとりまわしにおける、「答えの一つ」が見える形ではある。
そう、大枠で仮定すると、

・「江戸期の『幕府法定に従う』武家」
の法定に則った所作を旨とする、江戸期に興った流儀

に対しては、「答えの一つ」となる可能性はあると思う。

しかし、である。
上記を「公式」と捉えたとするならば、そこには「私的」が存在するのではないだろうか?
そして、そこにこそ「流祖の色(考えや嗜好)」があるのではないだろうか?

いや、それ以前に、室町期に興った流儀では、「公式」という捉え方や意味合い自体、上記と異なるのではないだろうか?

室町期には、現代まで連面と続く「古流」が興り始めたとされる。

これらは、その興流の時期や世相等の要求に合致するであろう、理論体系を形成し興ったと考えられる。
それを、興流より後代の江戸期における、幕府の規定のみでくくって良いのだろうか?
先述の様に、江戸期に仮に幕府の意向があったとしても、それは「後付け」であり、それまでの「仕様」を全く抹消するとは、考えにくい。
ならば、「古式」や「新式」の様に区別化して扱い、共に伝えるのではないか。
そう私見する。

更に基本として、その様な「幕府」の意向に添う事柄を教えるのは、流儀が主にする事なのだろうか?
それは、各「藩」単位や、「家」という単位が主になるのが、自然ではないか。

そこから、藩校などでは「下命」という形で、指示があったかも知れないが、あくまでそれは、従である。

しかし、現代に於ては何故か、興流時期を勘案せず、また、その主従を考慮なく、「古流=江戸期の法定が正しい、そして、それを流儀が継承していなくてはならない」かの様な論法も中にはある。

以前、下拙が教えを受けた古武術流儀もで経験した事だが、広義で類似の事柄があった。
ただし、これには、確かな理由付けもあっての事であるのだが、下記してみる。
その流儀は、江戸期以前に興流した流儀を学んだ流祖が、江戸期に入って後に宗家より許可され、独立した流儀だった。

その為、江戸幕府の定める公式の場や、公人としての立ち位置で武を用いる事が想定されていた。
それをうけ、先述の「幕府法定」を遵守した「大小二刀差」の身拵えでの稽古を専らとした。
とはいえ、無論、元の流儀自体は、江戸期以前に成立している訳である。

しかし、それの独立時期が明確故の弊害があった。たまに、まだその辺りの思慮が出来ていない弟子の中から、「これが本物、他の流儀のやり方(一刀差しでの稽古等を含む)は誤り」と言うような、理を知るものが聞けば、決して道理ではない「外見重視」な排他的かつ侮蔑意識を持つ者が出てきて辟易した。

その様な、極端な外見重視は「武術流儀の本分」ではない。

他にも「笠を被って邪魔にならない剣術が出来るか?」「旅装のままでの剣術が出来るか?」と問われ、実際にそれらを身に付けて稽古した。
客観的に見て、現代に於ては、往時を知る為に、その様な経験をしておくに越したことはないだろう。

しかし、そんな事に充足を感じ、武術流儀の優越感をもってよいのか?

それ以前に、「斬りはしっかりしているか?」「身体の捌きは雑味がないか?」と武術そのものの進み具合を問われて、「是」と応えられる者がどれ程いようか。

いや、何より「古流」ならば「鎧兜」を着用することが、大前提で有る筈だ。
鎧をまとい、兜を被った状態を想定した、「身体操法」であるなるば、別段に笠を被り、旅装をまとって稽古する必要は、「体験」や「確認」以外、本来はどこにも無い筈である。

それを、笠や旅装を持ち出して、うちは凄い!というのは、本末転倒であり、自分で自流の底の浅さを露呈させているようなものだ。

本来は、粛々と稽古に励み重ね、その様な折りには、「こうか?」と、事も無げに動ける事が、「きちんとした流儀」の「修業」における真っ当な成果であると下拙は思う。

話が逸れた感があるが、そうではない。
つまり、この手の議論は、「枝葉を気にするあまり、根幹を忘れた」、主旨を外れた論争になってしまうのではないか、そういう危機感を感じるのだ。

根や幹を育てなければ、満足に枝葉は育たない。
逆に、根幹が申し分無く育てば、枝葉の拡がりは広大となり、葉数は四方八方に申し分無く、枝は様々な景色をもって泰然と張る。

それを、まだ小樹の身で、枝葉の張り方を語る様な事はすべきではない。それ以前に、本質を大樹足らしめるべきだと、下拙は思う。

「下げ緒のとりまわし」と言う、ともすれば、葉の一枚を論ずる事に終始するあまり、枝も根幹も蔑ろにされる懸念である。

それは、極めて危険な事だと、下拙は思う。

それを承知の上で論を行うならば、参勤交代図や、江戸期の市中図等に有るような、短めの下げ緒を栗形(鞘に付いている、下げ緒を通す部品)に通し、栗形より掌程度の巾下で、一結びして鞘に掛けて後ろに流すやり方は、「一つの時代のやり方」である。

そして恐らく、これが「見た目にも、扱いの統一性上も、邪魔にならず、多人数の中でも『簡便』で『共有・一律化』しやすい方法」であろうと、推測出来る。

しかし、「唯一無二」ではない。

「公式仕様」のポイントは、「集団でも、統一感を共有出来る事」である。
多人数が、一子乱れぬ姿を造るには、共通となる「形」を造らなくてはならない。
それは、「学べば誰もが出来る簡便な範疇」で「様式美に敵う」方法での統一性創出を意味する。
※今回の内容上、「動作の統一」に関しては、割愛。

言わば、学校の制服だ。
学校では、これを着用する事で、集団の統一感が生まれる。
そして、制服には、バッグ等の「持ち物」も含まれる。

しかし、一旦私生活になれば、個々にバラバラな私服となる。
こう捉えると、「公式」と「私的」は、江戸幕府体制下でも、あり得ると考えられる。

現に、幕末期の写真となると、顕著にわかる。
残る写真には、拵も様々に、長めの下げ緒をそれぞれ、束ねて結んでいる様子が見てとれる。
これは、「公式」な方法の影響力の低下等もあり、「私的」な扱い範囲が拡大した為とも言えよう。

これも、時代の変化だ。

では、神道流を見てみると。

江戸幕府の開府より興流の早い流儀であっても、仮に江戸期以降、幕府の意向に沿うとしても、神道流が「神域」にあるならば、幕府の武家法定に必ずしも縛られるものではない。
神社や寺は、武家諸法度ではなく、「諸社禰宜神主法度」であり、「寺院諸法度」や「諸宗寺院法度」で統制されたからだ。

その点で、先ず、論旨の視るべき裾野が拡大する。

神道流の原初を考えると、天真正伝香取神道流様の名前がやはり思い浮かぶ。香取神道流様のやり方を拝見すると、「鞘にかけて、後ろへ流す」となる。

なるほど、これだけで見ると、先述の江戸初期に制定された法定と流し方は似ている。

何故、似かよるのか。
二つ考えられる。

一つは、単純に「江戸幕府法定」に従っている為。
もう一つは、「江戸幕府の法定が『手本』とした、とりまわしの原形」の可能性である為。

厳密に語るのであれば、香取神道流の御宗家様や師範様にお伺いしなくてはならない為、ここでは、客観的に視た情報から話を進める。

香取神道流様の下げ緒のとりまわしが、前者の理由であるならば、下げ緒は短くなくてはならない。
しかし、香取神道流の皆様がお使いの下げ緒は、特に短くはなく一般的な長さを用いておられる様だ。
だが、これは、重箱の隅をつつけば、「厳密には、短いのを使うところを、現代は普及品で間に合わせているのでは?」と言い出す人間も居るだろう。

しかし、香取神道流様は更に、帯への差し方も実は、独特なのだがそちらは余り注目されない。

だが、これが神道流が神道流たるを雄弁に語っているのではないか。そして、刀の扱いが服装を主とする「従」であろうと気付く。

今回は、そちらの詳細は割愛するが、「下げ緒」で是非を問うと言うのであれば、それ以外の周囲にも目を向けなければ、片手落ちだろう。
その上で、まだ必要があると思えば、改めて普及品かどうかは、問えば良い。

ともあれ、下拙は後者の可能性を大と考える。
香取、鹿島を問わず、「しんとうりゅう」は、この扱いが多い。
しかし、では、鞘に掛けて後ろへ流すのが神道流のみの事かと言われると、これがそうでもない。

下拙が知りうる程度でも、かなり著名なご流儀も多くこのとりまわしをなさっている。
付け加えるならば、歴史の長い流儀程、この方法を用いておられる事もある様だ。

と考えれば、自然、

この形が、一番シンプルであり、自然と、この形がとられたのではないか。

と考えられる。

では、当流はどうかとなると、平素(鎧着用以外、装束や着物等の場合)の大刀のとりまわしは、基本、香取神道流様と同様である。
ただ、異なる面も一つある。それは、下げ緒を一巻き、鞘に巻き付けてから鞘に掛けて垂らす。
これは、栗型のみに下げ緒を通して垂らすと、不意の衝撃で栗型が鞘から外れてしまうのを防ぐためだ。

そして、普段の稽古では、「鞘に掛けず腰前に垂らし、左腰の袴紐にはさむ形」と「鞘に掛けて後ろへ流す」二つのやり方がある。

何故か。

当流に於いて、居合とは小具足の内であるとされている。
その為、当流の居合は想定として、前差しや脇差しとしての業と、太刀や大刀としての業が、それぞれ存在する。

稽古では、太刀は別にして、打刀を一刀のみを用い、その両方の想定業を行う。その為、どちらを想定しているかによって、厳密には下げ緒のとりまわしも変わるのだ。

まあ、業自体は、稽古を積んで業が進めば、そんな区別なく遣えるようになるのだろうが、教導要項としては区別されている。

これは私論だが、このような事の積み重ねで「自流の業や体捌きに適した」、前差や大刀、そして太刀や腰回り物の取り扱い方や据え方が習得出来る為、というのもあるのではないかと推測する。

勿論、鎧を着用する際も同様だ。
平素と同じく太刀を下げ緒を使い腰にはき、帯(緒)には、打刀拵の大刀や前差を腰刀としてたばさむ。

前差の下げ緒は極力短く、それを帯(緒)の左腹から左腰前に差し挟み、脱落防止とする。その為、鞘にはかけない。

大刀では、平素と一つだけ異なる扱いがある。
それは、大刀をたばさむ際、下げ緒の先を帯(緒)に挟む事だ。
大刀は、平素も含み、時には腰回りが邪魔にならないように、後ろ腰に回したりする事がある。
その為、ある程度の下げ緒の長さ(自由度)がある上で、脱落防止をする必要がある。
そこで、鞘に掛けた下げ緒を前に回して、左腹から左腰前の帯(緒)に挟む。

あくまで、当流のではあるが、「平素のとりまわし」と「鎧着用時のとりまわし」は、上記の様になる。

先述の様に、当流では、稽古を打刀一刀で行う場合、二尺以上で身体にあった長さの物を使用する。
その為、充分に手繰れる様に、下げ緒も長い物を付ける。それ故、前差を想定した場合は、余裕分が腰前に垂れている。
無論、大刀の想定であれば、鞘に掛けて後ろへ流すには充分な長さがある。

最近、神道流の師にお会いしたら、下げ緒のとりまわしを、大刀の様に鞘に掛けて後ろに長し、鞘下より前に回して、左腰の袴紐にはさんでおられた。
これは、鎧着用時の下げ緒のとりまわしである。

確かに、こうすると、下げ緒の先が固定されているので、稽古の時に下げ緒の乱れを極力抑えられる。

稽古に費やす時間を、一分一秒でも無駄にされない為に、師はそうされたのだろう。

これは、「工夫」である。
基本と理念を知っていれば、稽古の際はそれで良いのであろう。

とすれば、現代の居合道や抜刀道の取り扱いが、古式のそれと差違があったとしたら。それも、そこには「稽古の為の工夫」があるのではないだろうか?

そして、それは、「否定されるべき扱い」ではなく、「何故、そうなったのか」と思案する事で、その流儀の先人先達の方々の「思い」を勘案する糸口となるのではないだろうか?

極論を言ってしまえば、下げ緒の所作やら扱いやらが分かっていれば、稽古の際は「下げ緒を付けなくても」良いと下拙は思う。

これも、「武術本分の追求」が故である。
そこに、「何を観る」のかで、世界は全く変わるはずである。

なにより、剣を以て生死を懸けて斬り合った事がない人間が、先人先達が血と命を流して作り上げられたものを、安易に否定して良い訳がない。

それは、「無礼」であり、古流を学ぶ資格すらない、そう下拙は思う。

繰り返すが、そんな「些末」な事を声高に叫ぶ暇があったら、素振りが何回出来ようか?
その時間を、稽古に充てたとしても、現代では質量ともに足りないのだから、それを自ら稽古時間を間引く様な事は、一利無しだと下拙は思う。

さて、話を戻して、友人の流儀である。
友人の流儀は、幕末期に興流しており、下げ緒は「本結び」等の結んだまま帯刀する形だ。

そして、彼の流儀の居合は、「大刀で行うもの」と明言する。
で、あるならば、これは、前述の様に幕末期の写真等をみても、大刀を下げ緒を結んだままの帯刀が多くみられる。その時代に準じるこれもまた、「一つの真っ当な伝承」なのだと分かる。

この様に見てくると、確かに、「鞘にかけて後ろへ流す」と言うのは、「一つの基本の形」であるとは考えられるが、これが絶対でもない事が見えてきた。

また、改めて、「何故、『幻の正解』に固執する方々」がいるのかと、疑問は膨らんだ。

下拙が知る限り、現代に於いて、無理矢理「共通化」する必要は感じないし、したがる感覚がわからない。

己の学ぶ流儀に誇りがあれば、他を強要される事に、義憤するだろう。
されば、もし、仮に逆の立場であれば、自分がやられて憤る事を、強要する必要もないと感じる至るだろう。

ではなぜ、この様な議論が出るのか。

下拙は、二つ私見をする。
「観る目」と「変に外観に拘りすぎる」、この二つだ。

共に「観」の字が含まれる。
つまり、「本質を観る」事が出来ないと言う事を指摘したい。

一つ目の「観る目」は、そのままだ。
現代において、業の優劣を「批評」を以て行う「古武術者」もおられる。
判りづらいかも知れないが、「批評」と「感想」は異なる。

下拙の知る、偉大なご先達の方々は、一様に笑顔が素敵であり、一旦剣を執れば、迅精無比の業を振るわれる。
そして、他流を貶さない。

感想を求められれば、自流と異なる良い所等を挙げられる。
それは、「感想」である。

そこに、己の物差しで勘案した主観や自己満足を交えたら「批評」である。

この差は、大変大きい。
世が世ならば、生死を懸ける場面になりかねない。
しかし、現代において、その危機感も薄れ、自流を誇るに他流を貶めるを以て行う者がいるのも事実だ。

「やれば判る」そう言う意識を、本当に持つ人間程、「やらなくても判る」観る目をもっている。

だが昨今、ある程度の「結果」を見せられないと(もしくは、『見せて貰えないと』)、推し量る事が出来ない人間が増えた気がする。

本来、何気無い一挙手一投足で、「内側」を観られなければ命が無くなる世界であるはずだ。
それを、表面上の「用意された結果」を鵜呑みにしては、やはり危うい。

しかし、その様な「表面に浮かんだ事」しか見てとらずに、批評する輩が現代は多い。

何故か。
そこで、二つ目の理由だ。
やはり、「外観に拘りすぎている」のではないだろうか。

一つ目と同様に、昨今、内側の本質を大切にするのではなく、外面ばかりを大切にする人間性を多々感じる。

勿論、演武なども含め、キチンとした身なりは、大切である。
以前に論じたが、演武の場等で、道のご先達の方が、ピシッとした身なりで、威風堂々と、背筋が凍るような峻烈な御業前を演武されるのを拝見すれば、自然と続く者は、背筋が伸び姿勢を正すものだ。

そのような方が、仮に、下げ緒を付けずに演武をされても、それがどれ程の意味があろうか。
よしんば、それに対して「下げ緒を付けていない」等と批評する者が居たとしたら。
その者は、武術の道を真っ当には歩んでいないと断じて良いと下拙は思う。

それは、自分が外観を飾ることに終始するだけで、中身を伴っていない事を露呈している事なのだから。

日本古武術を学ぶものにとって、披露の場での、紋付や装束は「コスプレ」ではない。
「晴れ着」である。
晴れ着なのだから、着物だろうが、装束だろうが、キチンと着られて当然。着られていなければ「無礼」なのだ。

しかし、己の恥を晒すようだが、現代に生きてきて初めて、着物を着て刀をたばさむと、非日常的な高揚感を感じないとは言わない。
それだけ、「着物」や「日本刀」と言った日本文化が、日常から遠退いたとも言える訳で、物悲しさを感じる。
だが、それは、抑えるべきものであって、それが主であっては、決してならない。

そして、現代において細くなっていようと、過去から連面と継承されている「道」があるのも、また事実だ。
そして、幸運にもその道が、在る事を知り、その道に足を踏み入れる事が、下拙は出来た。

ならば、その道の真ん中を只真っ直ぐに歩むだけだ。
端に寄り、道端の草を見て、都度歩みを止めるより、たまに振り返って、見ればそれらも目にはいる。
それで良いのではないか。

正に観るべきは、道端の草ではなく道の先である。
正に学ぶべきは、末端の枝葉ではなく、本質の幹である。

せっかく、日本の文化を学べるのだ、日本人らしく、真っ直ぐ真っ当に学びたいものです。