今回、発刊された『海外へと赴いた明治民権期の青年たちの群像~廣田善朗と大住・淘綾両郡の青年たち~』において、海外へ赴いた主に大磯町寺坂出身の2名、平塚市山下の1名、伊勢原市西富岡の2名、二宮町山西の1名、それに平塚市南金目の1名の7名の大住・淘綾両郡の人物、それに旧東京府の1名を、今回の人物群像の対象とした。この中で、群像の青年たちの出身者に、一人別の地域の人物が入っているのは、なぜ?なのだろうと言う疑問をもつ人がいることであろう。ただ「青年群像」だけでは、どこの地域に関係する人物か的確に示せないので以上のような表題にしたのだが、海外の在米自由民権運動を論じようとする時邦字新聞『新日本』に関わった廣田善朗や石阪公歴といった人物が欠けては、海外編の相関関係図を成立さすことが出来ない。海外の青年群像に不可欠な人物が、ここに別地域の人物を挿入しなければならなくなった理由である。

 在米日本人史の2つの柱となっているのが『福音会沿革史』であり、もう一つは『邦字新聞沿革史』である。福音会沿革史は、渡米した青年たちが先ず最初に転がり込む場所であった。寄宿舎があって英語を学べ、しかも就職の斡旋や在米生活の方向をも示した。福音会はやがて基督教派のメソジスト教会へと「福音会」から離れ、教団としてアメリカ各地に発展していくが、このメソジスト教会牧師として各地で活躍したのが、猪俣弥八の「牧師仲間」であった。弥八は一方でハリスなどの教会関係者との関係、他方では伴新三郎との関係と二つの主要な生活軸をもっていたが、福音会沿革史にかかわるメソジスト教会に深くかかわっていたのである。弥八の牧師関係の友人は、『在米日本人史』(在米日本人会事績保存部・在米日本人会発行・1940)のなかの「第5章宗教史」(340~349)に深くかかわっている。また他方、海外編青年群像の青年たちは、「第7章邦人社会における刊行物」(504~511)の、邦字新聞沿革史にも『邦字新聞新日本』の発行者である廣田善朗や石阪公歴との相関関係にある人物群像に深く関わっている。邦字新聞『新日本』には廣田や石阪らが関係したが、『日米新聞』には猪俣弥八の友人、中内光則や米田實らが関係していたことが知られるし、伊勢原の西富岡の堀江弥八も廣田善朗と教会での講演をおこなっているほど、この2つの柱は在米日本人の歴史に大きな深い影響を与えているのである。