小澤正太郎(1867~1920)のアンナーバー時代はあまり知られていない。彼は慶応3年9月7日、大住郡西富岡村(現伊勢原市西富岡)の豪農小澤元右衛門と妻イクの長男として生まれ、小学校は地元の富岡学校(現高部屋小学校)であった。その後、大磯の善福寺境内にあった伊東希元の男子敬業学舎に学ぶ。その後、東京に出て、明治16年9月、慶応義塾に入学。東京での学生生活は、反政府系の新聞発行に関与し、また相州民権家たちとの交流をもち、石坂公歴との接触もあったようである。また、雨方熊楠を民権運動に導いた一人とも考えられる有地芳太郎(熊楠の竹馬の友)とも親しい交友関係をもっていたことが考えられる。

 小澤はその後、アメリカのミシガン大学に留学し、在米日本人の自由民権運動の主軸となっている「新日本」と「大日本」を結び付けた人物として、言い換えれば、熊楠と「新日本」を結びつけた人物として小澤正太郎が再び登場する。1888年、小澤正太郎や福田友作、橋本義三ら、オークランドの「新日本」の影響を受けた人たちが、アンナーバーのミシガン大学へ移って来たが、丁度同じ時期に南方熊楠が渡米してきていたからであった。やがて小澤は熊楠と出会い、やがて熊楠の友人茂木虎次郎、堀尾権太楼を含め「大日本」という手書きの回覧新聞をつくっていく。間もなくして『珍事評論』を発行し、熊楠の中心には多様な人物たちが集まり、小澤正太郎のミシガン時代を形づくった。熊楠の仲間たちのミシガン時代をここで列記すれば熊楠の渡米時代は1888年、11~1891年4月まで、小澤は同じく1888年12月に渡米、1991年9月まで、ミシガンに滞在した。菱本義三は1888年9月から1890年7月まで、福田友作は1888年から1890年までのミシガン時代を共有している。

 ここで、小澤正太郎と熊楠の関係で、特に注目すべき3つの点について記してみたい。その第一は、小澤は、熊楠の研究を含め、熊楠が今求めているものは何かを深く理解していたアメリカの熊楠の大切な友であった点である。その故に『珍事評論』などにも熊楠は多く題材にされた。第二に、1886年頃から愛国有志同盟に小澤や福田と共に参加した橋本義三も1888年アンナーバーに来る。これらオークランドの「新日本」の影響を受けた人たちが、アンナーバ―に来たことで、熊楠の意識も大きくかわった。熊楠が「新日本」の通信員であった証拠を示す書簡も最近発見された。

 熊楠にとって、これからの活躍の場を得るためのミシガン時代は、言わば「飛躍のための土台石」となった時代であったように思う。その時代が、熊楠が小澤らと過ごしたアンナーバ―時代であったといえよう。