石阪公歴は渡米直後のアメリカの現実について「日本人以上に中国人への差別」があることを見て、中国人への人権抑圧社会のアメリカの現実をみたが、鈴木房五郎のもう一方の友人後藤濶も、第一回官約移民に応じてハワイへの移民団の一人として日本を離れて、ハワイでのサトウキビ農園の労働に従事する。後藤濶は3年間の「サトウキビ農園での労働契約」を終えて、やがて念願の「商店」を開店するに至る。日本人労働者がサトウキビ農園での農園主からの不当な扱いにたいして、日本人移民への農場主との交渉など、かれらの利益を代弁してたたかった。英語に堪能で、労働改善へも意欲をもっていた後藤濶は、日本人移民にとって一人の頼るべきリ-ダーであった。日本人商店主として成功した濶に対してアメリカ人の、ある種の「たん瘤の上の瘤」であった後藤濶は、ついに電柱に吊るされた状態で発見されるという「リンチ殺人事件」に遭う。彼はリンチ(私刑)という形で殺されてしまうが、その裁判も白人に有利の形で終わった。かれのリンチ事件は、その後、長く忘れされていた。この「忘れされれた」原因の一つが「アメリカのアジア人種」への抑圧と差別の『歴史』という、背景にその根源があった。戦時中もそうだが、在米日本人はみな「収容所生活」を強いられていたのである。このような現実が、在米日本人のアメリカ、またハワイでの地位向上に伴って、在米・在ハワイの日系人の地位の向上に伴って、かつての白人による日本人リンチ事件も、次第に逆に「顕彰への道筋」がつくられるようになってきた。その「日系人の現地における復権」の過程で生まれてきたのが、後藤濶の例である「ホノカア記念碑」の建立であった。

 後藤濶の墓は大磯町寺坂に「小早川勝蔵の墓」として存在するが、濶の墓はアメリカにも存在する。濶の弟の養女の活躍で、地元にも後藤濶の墓ができた。そこには日系人の数多くの支援があってのことであったが、後藤濶は「日本人移民たちの労働改善に尽力した日本人移民の一人」として、濶を顕彰の対象として「記念碑」の建立となったのである。彼はリンチ殺人事件に晒されたが、今度は「ハワイ移民の英雄」として、崇められる対象となったのである。このようにハワイのハマカアにある後藤濶記念碑には、その背後に「移民日本人の復権の歴史」が刻まれているのである。そのことを今回、県央史談の口頭報告で話したいと思う。本ブログでの紹介として書いた次第である。