俺は滅多なことじゃあ大金を使わない主義だが、その時ばかりは危うく、硬く締まった財布の紐をハサミでチョキンとばっかりに切り落としそうになった。


その店で売ってた靴が原因だ。おっ、半額セールやってるじゃねぇか?そう思って、飛び込んじまったのがマズかった。いいのが安値で買えるかと思って期待してたのに、「いいもんはあるかい?」そう言って店のネエちゃんに頼んだところが、こりゃあ出されるもんが全部、高級品ばっか。しかも、そいつらときたら、ことごとく「セール対象外」だなんて書いてある。


更にそういうのに限って、俺の足にピッタリきちゃったりするんだよ、ったく。こうなりゃもう、その辺の半額のチャラい靴にゃあ興味も出ねぇ。・・・そうか、あのチャラいやつらは、この高級品どもを客に掴ませるためのただのサクラだったってわけか。なんて、もう気づいたときにゃあ時すでに遅しってやつだな。


だが、俺も何とか堪えたよ。伊達に30年以上も生きてるわけじゃねぇ。そうやってホイホイブランドもんに手ぇ出しすぎて、負債だらけになっちゃまったダチはゴマンとまではいかずも、大分色々見てきたつもりだ。金持ちは資産を買う、貧乏人は負債を買うったぁ、「金持ち父さん」は良く言ったもんだね。もっとも、貧乏人の発想じゃあ、ヤツが言う「資産を買う」ってことに考えが至らねぇわけなんだが。


そして俺もそう、20代のときにゃぁワルいことやって色々稼いだつもりだが、そんなあぶく銭、今は1円も残っちゃいねぇ。水から泡は出せても泡から水にはなりはしねぇってか。まぁ、くだらんたとえ話は終わりにして、結局のところはコツコツ働くのが一番、金は節約するのが一番って考えに至ったワケだな。そう思って働き出して、今年でようやく3年目だ。


だから、そのときばっかは店のネェちゃんにゃ悪いが、「おっとすまねぇ、持ち合わせなかったんだ。また出直してくらぁ」そう言って、店の外へスタコラサッサだ。まるで警察に追われる泥棒みてぇなだよな、情けねぇハナシ。


でも時間が経ってみると、おかしなもんだよな。あの店で試着した靴のことがどうしても忘れられねぇ。あの艶、フォルム、そして履いた時の、あのフィット感、地面を蹴ったときの軽やかさ。どれをとっても、完璧に思えてならなかった。あれは俺にとって、最高の靴だ。あの靴は、俺にこそ履かれるためにあったんだと。


バカな話に聞こえるかもしれねぇが、人間がモノを欲しがるときに抱く気持ちってのは、だいたいそんなもんだ。どこの男、フラれるとわかっていて、女を口説いたりする?いや、世の中にはそんな物好きなやつもいるかもしれねぇが、大体は、相手も自分のことを欲してるなんて妄想抱いて、アタックしていくもんだ。


だからこれは、俺にとっちゃあ完全なフォーリンラブ状態だった。そう思ったら、明日にでもあの靴を買いに行きたい、俺のもんにしてやりたい、そんな思いが芽生えてきたんだ。


しかし、金はどうする?俺はもう一度冷静になる。まだまだ稼ぎ始めて間もない時期にこんな簡単に大金はたいちまったら、また昔のワルだった頃に逆戻りしかねん。


そこで俺は、資格を取ることにした。マジメだろ?資格を取れば、今やってる仕事に生かせる。給料も上がるってもんだ。何の資格かって?まぁそこは、各人のご想像にお任せするが、フザけたやつじゃねぇってのだけは確かだ。だって俺の頑張りったら、自分で言う程のもんじゃねぇかもしんねぇが、ハンパなかったぜ?


これまで読みもしなかったような難しい文献読みあさったり、好きなテレビのある時間帯でも机に着いてペンを動かし続けたり。まぁ、時には集中力切れてガール・フレンドのところに車――じゃねぇや、俺免許持ってないからそこは電車とかになっちまうけど、なんだ、デートしに行ったりもしたけどな。


でも最終的に、俺はその試験に合格した。どんなもんだよ。まぁ、ギリギリだったようなところはあったが、合格しちまえばこっちのもんだって、よく言うよな。ホント金が入ること考えたら、うはうはな気分で鼻息も荒くなった。だけど仕事場じゃあ、そんな俺を気色悪いだなんて思うヤツはいない。なんつったって、俺はやつらが憧れる資格ってやつを持ってんだ。俺を見る目も羨望の眼差しに変わった。


そして、いよいよだ。俺は待ちに待った自分へのご褒美、そう、例の靴を買いに走った。流石に良い気分だったね。金が勿体ねぇだなんて思ってた気持ちとはおさらばだ。なんつったって今の俺には金がある。あの靴を手に入れるための、じゅうぶんな金がな。


だが、俺は靴屋に行ってガッカリしちまうハメになった。え?まさか、あの例の靴が売り切れたからだって?ちげぇよ、そんなくだらねぇ理由からじゃねぇ。


靴は確かにあった。「あった、この靴だよ。ニィちゃん、俺にこの靴履かせてくれ」俺は店の、ちょっとやる気なさそうなニィちゃん――こないだ俺に靴を紹介したネェちゃんは、いなかった。あの、買い手の購入意欲をそそるような元気な声が聞けなかったのも、非常に残念でならない――に頼んで、その靴を履いた。


しかし、靴はサイズも合っている筈だったのに、俺の足には違和感しか感じさせなかった。嘘だ、こんな筈は。そう思ったね。俺の足が、前より太くなったってのか?ほぼニ月、三月ぐらいしか経ってねぇのに。


「この靴じゃねぇ・・・この靴はいらねぇよ、何か、他にもっとマシなのねぇのか?」衝撃を隠せずにはいられない俺の口から洩れたのは、そんな言葉だ。店員のニィちゃんは、ダサいパーマがかった頭をぼりぼり掻きながら、他はこんなもんしかないっすけどねぇ、そう言って、非常に地味なローファーを俺に寄越した。


その地味な靴は、確かに地味だが、変なカッコツケ方をしていないという意味では良い靴かもしれなかった。なんというか、無難に収められた、そんな印象を持たせる靴だった。そしてそのローファーに俺が足を通すと、さっき試着した靴とは大違い。ピッタリと俺の足に入ったのだった。


結局、俺はその地味なローファーを買うことにした。ついでに、防水スプレーなんかもどうですか。雨の日には重宝しますよ。やる気の無い店員は、そんな下心丸見えの勧誘もしたが、それすら俺は防ぎようがなかった。ホントは以前にフォーリンラブした最高の靴に出す筈の金が、地味なローファーと、ついでの防水スプレーのために消えてしまうとは。なんとも、ガッカリな結末である。


いったい、どうしたってんだ。いったい、何が変わったっていうんだよ。その理由もさっぱりわからぬまま、俺は地味なローファーを履き、今日も仕事に打ち込んでいる。ひたすら、コツコツと・・・。