8月18日の誕生日にはいつも
夏の終わりの気配が、漂い始めます。
真夏の高揚が、ピークアウトした物哀しさに、ちょっとセンチメンタルにもなる、季節の曲がり角です。
一昨日までは、灼熱の太陽という形容が、大げさではありませんでした。でも、昨日と今日は、今までの暑さが嘘のように遠退き、秋の風が立ち始めています。
誕生日の頃にはいつも、がらがらだった都心に、人と車が戻ってきます。
お盆休みも終わり、人々が帰省先から帰ってきて、日常が再開されるタイミングでもあります。
甲子園が、決勝を終えて、熱戦・熱闘に終止符を打つのも、毎年、この誕生日の頃です。
誕生日を迎えて、年齢を重ねることを、素直には喜べなくなって、ずいぶんとたつような気がします。
自分自身が歳を取らないかぎり、歳を取った人の気持ちは、本当には理解できないのかもしれないと、つくづく感じます。
他界した父のことを、思い出します。
気難しいところのある父でした。
疎ましく感じながら、元々そういう性格の人なのだろうと、思いなしていました。
だけど、もしかすると、歳のせいもあったのかもしれません。
歳を取ると、誰でも気難しくなったり、苛立ったりしやすくなるという事実に気づかされたのは、
茨木のり子さんの一遍の詩のおかげでした。
気を付けなくてはいけないという戒めを受けたのも、この詩のおかげです。
「自分の感受性くらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
「自分の感受性くらい」(茨木のり子、花神社、2005年)より
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最後のばかものよ、というフレーズに最初に出くわしたときには、頭を殴られたような衝撃がありました。
他人や時代や暮らしのせいにして、言い訳をしながら、自分の苛立ちや不機嫌を野放しにしてこなかっただろうか?。
思い当たることだらけです。痛いです。
老いた父の、小さな苛立ちや不機嫌を許せず、責めるようなまなざしで見ていた自分の愚かさも痛いです。
父は、若い息子から、咎められていると感じ、よけいに身を固くしていたことでしょう。かわいそうなことをしてしまいました。
ほがらかであるように。
なごやかであるように。
晴れやかであるように。
瑞々しい感受性を忘れないように。
気をつけて、心がけ、つとめようと思います。