岩上安身 オフィシャルブログ powered by Ameba -26ページ目
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8月18日の誕生日にはいつも

夏の終わりの気配が、漂い始めます。




真夏の高揚が、ピークアウトした物哀しさに、ちょっとセンチメンタルにもなる、季節の曲がり角です。



 

一昨日までは、灼熱の太陽という形容が、大げさではありませんでした。でも、昨日と今日は、今までの暑さが嘘のように遠退き、秋の風が立ち始めています。 




誕生日の頃にはいつも、がらがらだった都心に、人と車が戻ってきます。



お盆休みも終わり、人々が帰省先から帰ってきて、日常が再開されるタイミングでもあります。





甲子園が、決勝を終えて、熱戦・熱闘に終止符を打つのも、毎年、この誕生日の頃です。




誕生日を迎えて、年齢を重ねることを、素直には喜べなくなって、ずいぶんとたつような気がします。



自分自身が歳を取らないかぎり、歳を取った人の気持ちは、本当には理解できないのかもしれないと、つくづく感じます。 



他界した父のことを、思い出します。 



気難しいところのある父でした。



疎ましく感じながら、元々そういう性格の人なのだろうと、思いなしていました。




だけど、もしかすると、歳のせいもあったのかもしれません。 




歳を取ると、誰でも気難しくなったり、苛立ったりしやすくなるという事実に気づかされたのは、


茨木のり子さんの一遍の詩のおかげでした。 




気を付けなくてはいけないという戒めを受けたのも、この詩のおかげです。 




「自分の感受性くらい」




ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな


しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもがひよわな志にすぎなかった


駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ




「自分の感受性くらい」(茨木のり子、花神社、2005年)より


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最後のばかものよ、というフレーズに最初に出くわしたときには、頭を殴られたような衝撃がありました。


 

他人や時代や暮らしのせいにして、言い訳をしながら、自分の苛立ちや不機嫌を野放しにしてこなかっただろうか?。



思い当たることだらけです。痛いです。 



老いた父の、小さな苛立ちや不機嫌を許せず、責めるようなまなざしで見ていた自分の愚かさも痛いです。



父は、若い息子から、咎められていると感じ、よけいに身を固くしていたことでしょう。かわいそうなことをしてしまいました。




ほがらかであるように。
 

なごやかであるように。



晴れやかであるように。
 

瑞々しい感受性を忘れないように。
 


気をつけて、心がけ、つとめようと思います。

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