漂えど、沈まず

 

◇ 「地球はグラスのふちを回る」

 突然の用ができて東京に出なければならなくなった。それで、往復の電車のなかで読むもの、着いてから時間待ちの喫茶店で読むものをと探したが、二三日前から準備していたわけではないのでこの急場を埋めるものが思い当たらない。読む本はたくさんある、読むべき本も読まなくてはならないものもたくさんある。だが「こんな時」に当たるものがない。これは長すぎる、これは今読む気分ではない、これは持つのに重い、これは落ち着いた時に読むべきなど、時間が無いのになかなか決まらない。本など持たないで出れば良いのにと思うかもしれないが、電車という物に初めて乗って以来、本を持たずに乗ったことがないのだ。習慣などではなくそれは生理の問題なのだ。それでエィヤッとばかり開高健の新潮文庫「地球はグラスのふちを回る」をポケットに入れて家を出た。

 開高健のすべての小説、膨大にあるエッセイ集や対談集、そして写真集「オーパ」、超硬いものから超柔らかいものまで刊行されたもののほぼすべてを読んでいる。それでも文庫版を見つけると単行本を持ち歩くより便利だというただそれだけの理由でつい購入してしまう。この一冊もかなり前に購入したもので、あちらこちらに発表されたエッセイや随筆を一冊に集めたものだ。あっ、これはあそこで読んだ、これはあの本にもあった、という一編ばかりだ。だからといってそれが理由でこの一冊の価値が下がるわけではない。時間つぶしに何度同じものを読まされようとも、そのたびに何か新しい発見があれば時間つぶしではないように思っている。

 

◇ たばこを吸う姿

 「ちょっと一服」と題した「煙草」についてのあれこれの一編で、昔のスクリーンスター達の酒と煙草の演技についての言及があった。リー・マーヴィンが尻のポケットから取り出したウイスキーの小瓶を一口ぐびりと飲む姿、ジャン・ギャバンがたるんだ頬を一杯に動かして物を食べる演技、ハンフリー・ボガードの煙草を口に咥える仕草、そしてジェームス・ディーンがだらしなく煙草を咥える様子、このなかで特にハンフリー・ボガードの煙草の吸い方を絶賛していた。リー・マーヴィンもジャン・ギャバンもハンフリー・ボガードも思い当たる映画といっても一本か二本くらいしか観ていないし、酒を飲むシーンも煙草のシーンも特別の記憶にはない。だが、映画「ジャイアンツ」のジェームス・ディーンが煙草を吸う場面のことは記憶に残っている。

 「ジャイアンツ」は私の好きな映画のひとつで、川崎の映画館で二度も観た。何年か前にBSでも放映された。ジェームス・ディーンが演じる青年ジェット・リンクは、農場の女主人の遺産として貰ったほんのわずかな荒れた土地、自分のものとなった土地に立ち、肩に乗せたスコップを両方の手で押さえるようにして、自分の土地を一歩二歩三歩と計測するかのように何度も行ったり来たりする。ブルージーンズと真っ白なシャツ、真っ青な空と、やがてこの土地から真黒な原油が噴き出すことになる赤褐色の大地、大きな画面だからこそ色彩のコントラストが鮮やかだった。私の大好きなシーンだ。この場面でジェームス・デイ―ンは煙草を横咥えではなく唇の真ん中に、真っ直ぐではなくだらしなく下向きに咥えていた。その姿は今でも思い出すことができる。

 

 エッセイではこの4人の煙草を吸う仕草を絶賛しているが、私にとってひとつ前の時代の映画なので何とももう一歩踏み込めない。同時代を生きた私として別にもう一人付け加えたいスクリーンスターはジャン・ポール・ベルモンドだ。彼の煙草の吸い方だ。最初に観たのは「勝手にしやがれ」だった。それからずいぶんと彼の主演作は観た。「カトマンズの男」、「ダンケルク」、「パリは燃えているか」にも出ていた。やはり忘れられないのはジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」だろう。間延びしたほどに長い顔、長い顎、存在感を主張してやまない大きな鼻、大きく厚い唇に不釣り合いなほどに小さな煙草を横咥えして、忙しげに吸い煙を吐き出していた。顔の大きさと咥えた煙草のつり合いが取れない不安定感こそ彼の最大の魅力であったように思う。

 今にして思えば当時の煙草はその全部の銘柄がいわゆる両切りの煙草で、現在のようにフィルターが着いていない。だから歯で噛むということが出来ない。それにフィルターが着いていない分現在の煙草と比べて短くて軽い。それで自然と唇のまんなかにだらしなくひっかけるように見えるのだと思う。

 

 煙草は男の心象を表す小道具から隠れキリシタンのイコンの様なものになってしまった。禁酒法下の酒飲みのような気分で喫煙場所を探さなくてはならなくなった。煙草が不当に忌避されるのに同調するかのように酒もライトになった。ノンアルコール飲料が売れ筋ときいて驚くものがある。個人の極限的な嗜好品が柔らかく軽めになった。それが百年前とか50年前との比較ではなく、この20年ほどの間のことだ。「煙草」も「酒」もライトがもてはやされるその同じような軌跡を描きながら「思想」も軽くなって行くと言った評論家がいたが、今まさにその極限に達しつつあるような気がする。あるように感じるが実は1パーセントも入っていない、まるで「現代」を表徴するそのものだ。

 

 「漂えど、沈まず」は晩年の開高が好んで使った言葉だ。水面に浮かび波に押され風に流される。だが沈まない。あっちでくっつき、また別れ、こっちでまたひと塊になる。それでも沈まない。あっちでフラフラ、こっちでフラフラ、自分もこうして生きて来たように思う。

 電車の往復と時間調整の喫茶店で一冊読み終えた。いくつかの思いが記憶に残ったが、入っただけの量が出て行った。

 何はともあれ、今日も一日無事に過ぎた。日が暮れれば良しとしよう。漂うが沈まない、だ。