下山事件

 

◇ 下山事件

 1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山は、7月5日朝、出勤のため迎えの公用車で大田区上池台の自宅を出発した。下山は車の中で運転手に日本橋の三越に行くよう指示した。三越に到着したものの開店前だったため、一旦国鉄本社のある東京駅前に行って千代田銀行(現:三菱UFJ銀行)に立ち寄るなどした後で再度三越に戻った。そして8時37分頃、「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げて三越に入り、そのまま消息を絶った。失踪当日は国鉄の人員整理を巡って緊張した状況にあり、9時から重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ夫人から「普段通り迎えの車で出た」との返事に国鉄本社内は大騒ぎとなり、警察に通報され失踪事件として捜査が開始された。翌6日0時30分過ぎ、足立区綾瀬の常磐線北千住駅と綾瀬駅間の東武伊勢崎線との立体交差部ガード下付近で下山総裁の轢死体が発見された。

 遺体の司法解剖を行った東大学法医学教室は、下山の遺体に認められた傷に生活反応が認められないことから死後轢断と判定した。だが、それより前に現場で遺体を検分した東京都監察医務院の監察医は、これまでの轢死体の検視経験から、現場検証の段階で自殺と判断していた。さらに鑑定の再評価を依頼された慶應大学法医学教室は生体轢断であると発表した。既にこの時点で、自殺の根拠となる生体轢断と見るか、他殺の有力な根拠となる死後轢断とするかで見解の対立があった。

 捜査に当たった警視庁は、殺人を担当する捜査一課は自殺とみて捜査を開始し、経済犯を担当する捜査二課は他殺の線を捨てず警視庁内部でも捜査方針が対立した。捜査一課捜査二課それぞれ独自に捜査が行ったが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり捜査は打ち切られ、やがて時効が成立した。

 

◇ NHKスペシャル「下山事件」

 3月30日夜に放送されたNHKスペシャル「未解決事件File10・下山事件」を観た。番組は二部構成になっていて、第一部は「占領期最大のミステリー、国鉄総裁謎だらけの死、検察捜査の知られざる舞台の裏側を実録ドラマ化」、第二部は「スクープ資料徹底追跡 事件はアメリカの謀略なのか? 96歳の新証言 二重スパイの闇が」というキャッチコピーが付いていた。

 第一部「ドラマ」は、検死解剖の結果死体から血が抜き取られていたことが分かり、自殺ではなく他殺の可能性へと展開していく。東京地検の検事として捜査を指揮することになった布施は、朝日新聞の記者の矢田とぶつかり合いながら、自殺として不可解な点が多いという観点から他殺の糸口を探っていく。その過程で布施はソ連のスパイと名乗る謎の男・李中煥にたどり着く。李は下山暗殺の関与を告白し、事件の背後でうごめく超大国のソ連の謀略であると驚くべき供述を始める。この布施は後にロッキード事件の捜査全体を指揮する検察のエースとなる人だ。また、矢田はこの後、独自の調査を基に「謀殺 下山事件」を発表することなる。

 第二部の「ドキュメンタリー」の注目点はソ連の工作員とされる李中煥の証言だ。これまで謎とされていた「下山総裁がどう拉致され、どこで殺害されたのか」など、犯人しか知り得ない事実が語られ、検察は李の供述を事件の真相として追跡していたことが明らかにされる。さらに李がアメリカの諜報機関(CIC)に出入りし“ある密命”を受けていた疑惑が浮上する。李の供述は真実なのか、李はアメリカとソ連の二重スパイだったのか。この謎に包まれた李中煥を知る人物が、アメリカで生きていることがNHKの独自取材で判明する。アメリカの元諜報員で、GHQの反共工作部隊、Z機関(通称キャノン機関)に所属していた人物がカメラの前で証言する。この中で、事件の背後で共産主義を弱体化させるためのアメリカ諜報部隊が動いていた実態も語られる。「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」と国鉄に関わる怪事件が相次ぐなか、日本を反共の防波堤とするために暗躍していた“工作部隊”の存在が見え隠れする、というドキュメンタリーになっていた。

 

◇ すべての人を納得させる形で決着する日は来ない

 警視庁捜査一課は「下山国鉄総裁事件特別捜査報告書」、いわゆる「下山白書」をまとめ自殺説を採った。毎日新聞が自殺説、朝日新聞と読売新聞が他殺説を主張した。昭和35年に松本清張は「日本の黒い霧」で米軍の謀略による他殺とした「下山総裁謀殺論」を発表、昭和48年に元朝日新聞社の矢田喜美雄が「謀殺 下山事件」で他殺説、昭和51年に元松川事件の被告であった佐藤一が「下山事件全研究」を発表して自殺説を主張した。昭和64年に元毎日新聞社社会部デスクの平正一が「生体れき断」で自殺説を世に問うた。

 「昭和史の謎を追う 下(秦郁彦著・文春文庫)」の「再考 日本の黒い霧(上)下山総裁は謀殺されたのか」のなかで、秦は「清張流の謀略史観から占領史にアプローチするジャーナリストや研究者は今も少なくないし、今も一部には定説として受容されている気配もある」として、アメリカの謀略機関の犯行という説を、「以上は、私の推理小説的推定である」と松本清張自身がさりげなく書いているにもかかわらず、読者の多くがこの作品をノンフィクションと思いこんだ、と指摘している。

 この章を「下山事件がすべての人を納得させる形で決着する日は、永久に来ないかもしれない」と結論している。私は秦先生のこの結論に納得している。

 

 下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、この三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれている。政府は、労組員や共産党の犯行を匂わせれば国鉄のゼネストは抑止できるし人員整理もスムースにいくと考えていた。メディアや世論は共産主義の恐怖を煽り立てた。だが政府の方針には一貫性がなかった。捜査一課の自殺説発表に待ったをかけたり、捜査二課の油や染料を突破口にした捜査にも待ったをかけた。だがこれは三鷹・松川事件が起きたこの時点で、共産党に対する忌避感嫌悪感は国民感情としてほぼ定着し、真相が発覚するかもしれないというリスクを冒してまで下山事件で無理をする必要がなくなったと見れば辻褄があう。だから逆に「真相」は別にあったのだという見方もできる。

 下山、三鷹、松川の三事件の後、戦後の日本の針路は大きく変わっていった。労働運動は大きな転機を迎え左派勢力は急激に衰退し、日米関係はより強固なものとなった。翌年勃発した朝鮮戦争の戦争特需がその後の高度経済成長の大きなきっかけとなり、それがそのまま日米安全保障条約に繋がり55年体制に結びついた。日本は政治も経済も社会も安定の方向に向いていた。事件の真相などもうどうでも良くなっていたのだ。