ひな祭り

 

◇ 上巳の節句

 三月三日のひな祭りには特別な思い出というものがない。そもそも女姉妹もいなかったし、貧乏な長屋暮らしだったのでお雛様を飾ることなど想像もできないようなことだった。周りもみな同じような貧乏所帯だったのでひな祭りなどまったく別世界のものだった。私の母はいわゆる良いところのお嬢様育ちだったので、この季節になると桃の花とか菜の花を花瓶にさして飾っていたことが思い出される。母にも思い出されるひな祭りがあったのだろう。その日暮らしの貧しい生活の中で、花瓶に差した一輪の花でもその女性にとってはひな祭りなのだと、今この歳になって思う。何もしてやれなかった自分がただ恥ずかしい。

 

 雛祭りは「上巳の節句」とも呼ばれる。三月の最初の巳(み)の日を上巳(じょうし)と言い、この日に人形(ひとがた=紙を人の形に切ったもの)で体を拭い、これを形代(かたしろ)として川に流して穢れを祓うという風習があった。これが平安貴族の子女が普段の人形遊びとしてあった「ひいなあそび」と結びつき、災いを人の形の物に移して水に流す厄祓いの行事になり、それから後に「ひなまつり」へと変化していったと言われている。

 お祓いの意味が強い風習が「おひなさま」という人形の形になり、きらびやかな衣装で飾る雛人形として公家の間で広まり、やがて従来の「上巳の節句」と入れ替わり「ひなまつり」として定着したようだ。

 1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(たなばた)、9月9日の重陽(ちょうよう)の五節句のうちのひとつである上巳の節句が「桃の節句」だ。平安時代に影響を受けた唐では、この日は災いを祓うために身体を清めてご馳走を食べるという習わしがあった。唐では昔から桃は邪気を祓い不老長寿の食物とされていて、お祝いの席で桃を形どったものを食べる風習がそのまま持ち込まれ雛まつりと桃の節句が重なったとされている。

 京から「ひなまつり」が江戸に伝わり、雛人形が大流行するきっかけになったとされるのが、1629年に京都御所で催された盛大な「雛祭り」ということになっている。この「雛祭り」を大奥に持ち込んだのは春日局で、これに女の赤ちゃん誕生を祝う初節句の風習が加わり、徐々に3月3日の桃の節句は女性のお祭りという考え方が定着していった。1700年代以降、江戸の町には雛人形を専門に扱う店が登場し、人形店が軒を連ねる雛市が開かれ大賑わいした様子が浮世絵にも残されている。

 

◇ 菱餅

 「ひなまつり」に付き物の食べ物と言えば、真っ先に思い浮かぶのが菱餅とひなあられだ。菱餅は赤、白、緑の三色と思い込んでいるが、「守貞漫稿」には青・白・青の三段重ねの絵が描かれている。もっと豪華な白と青の五段重ねの菱餅を描いた錦絵も残っている。白は餅の色で青はヨモギを混ぜた草餅だ。「東京風俗史」という書物に、明治になってからクチナシの実で色付けされた「ピンク色」が入って三色になったという記述があるので、菱餅に赤が加わったのはそう古いものではない。

 菱という植物は池や沼地に自生する水草で、繁殖力が高いことから子孫繁栄の意味もあり昔から吉祥文様のモチーフや家紋などによく使われているものだ。その形を模すことで子孫繁栄や長寿の願いが込められ、また実の先が尖っていることから、節分のヒイラギと同じような魔除けの意味もあった。菱餅が菱形なのは菱の実の形からきたものなのだ。

 

 もう大昔のことになるが、普段はどこにいるかも分からないほどもの静かで無口だが、酒が入りある領域を超えたとたん人が変わったかのように饒舌になり、人格が入れ替わったかのようにスケベ話をする先輩がこんな話をしてくれた。雛祭りは女の子の成長を祝い無事の成長を願う祭りだろ。菱餅のあの形はどこからきたものかというと、あれは女陰そのものを表しているのさ。難しい言葉で言えばデルタ、三角地帯だな。青色は草萌える、その下はピンク、つまりあれは肉の色さ。ひな祭りには付き物といえば真っ先にはまぐりのお吸い物が思い浮かぶだろ、はまぐりをよく見てみろ、ひだが多くぬめっとしたところなんか女性器とそっくりだろ。つまり、そういうことなんだ。それにひな祭りといったら白酒が出てくるだろ、白くどろっとしたやつ。ここまで話せば分かると思うけど、白酒はアレさ。白くどろっとしたアレ。桃の節句って言うだろ、もものせっく、白くすべすべした腿とセックスだ。話をしながら割り箸の先を酒に浸し、それを筆にしてテーブルの上に公衆便所の落書きのような陰部の絵まで描いてくれたことを、なぜか今でも鮮明に覚えている。酒を飲んでも領域というものを超えさえしなければ本当に良い人だった。

 

◇ どうして将軍飾りにならなかったのだろう 

 松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出るとき、自分が住んでいた芭蕉の木がある家に、今度は娘のある人が住むことになったと聞いた。今までは自分ひとりが住むだけで殆ど色気のようなものはなかったが、若い娘が暮らすとなればきっと雛人形を飾ったりして華やいだものになるだろうと、「草の戸も 住み替わる代(よ)ぞ 雛の家」の句を残して二度と戻らない旅に出た。この句が読まれたのは元禄6年のことだ。五代将軍綱吉の治世、世は徳川家による太平を謳歌していた。この頃から雛飾りがだんだんと豪華になりだした。

 室町時代に京の公家の間で広まり、江戸時代には武家から一般庶民にまで定着した「お雛様飾り」の最上段にいる「お内裏さま」は天皇と皇后を模している。江戸時代の絶対権力者徳川家の幕府は、どうしてお内裏様を飾るのを禁じ、「徳川将軍雛」にすべとし命じなかったのだろう。なぜ、将軍さまと御台所さまの「お雛さま」にならなかったのだろうかと考えると少し不思議に思える。どうしてなのだろうか。