皇帝が崩じた 

 

◇ 皇帝崩御

 ドイツのフランツ・ベッケンバウアーが亡くなった。ヨハン・クライフ、マラドーナ、ペレと並び現代サッカーの礎を築いた巨人の一人だった。優雅とさえ見えるグラウンド上での振る舞い、すっくと立ってグラウンドを睥睨するその佇まい、そして卓越した統率力と存在感から「皇帝」と称された。皇帝、それも常に戦う皇帝だった。74年西ドイツ大会では主将としてクライフ要するオランダを退け優勝、90年イタリア大会では監督としてマラドーナを擁するアルゼンチンを下して優勝した。主将と監督の両方でW杯を制したのはこれまでに二人しかいないという偉業を達成した人だ。

 70年W杯メキシコ大会、イタリアとの準決勝は「アステカの死闘」として後世まで語り継がれる名勝負だった。この試合でベッケンバウアーはイタリア選手の激しいタックルに遭い右肩を脱臼してしまった。当時は選手交代が認められていなかったので、ベンチに下がることなく包帯で右肩をぐるぐる巻きにしてグラウンドに戻り戦った。この試合の映像は観たことがないが、この右肩に包帯をした姿の写真によって「アステカの死闘」は記憶に残るものになった。この準決勝は延長戦の末に3-4と敗れたが、優勝したブラジルのペレが「キング(王様)」の称号を戴冠された大会だったが、ベッケンバウアーの献身もW杯史に刻まれることになった。

 

 70年代まではGKを除くフィールド・プレイヤーのポジションというものが固定されていて、上下の動きはあったが、右のサイド・ハーフが左に寄ったり、逆に左のハーフが右に流れるなど、左右のポジション・チェンジということは殆どなかった。それは前線のFWの二人もまったく同じで右の選手は常に右側から、左の選手は左側からの攻撃だった。マン・ツー・マン・デイフェンスが基本なので、グラウンドを俯瞰すれば敵味方の二人が上下に行ったり来たりするだけで、守備も攻撃も担当するエリアが限定されていた。それはまるでチェス盤の上の駒のように広いグラウンドの中に敵味方二人がペアになって散在していた。

 この概念を180度転換させたのがヨハン・クライフを擁するオランダの全員攻撃・全員守備という「トータル・フットボール」だった。ポジションに拘ることなくボールに一番近くにいるものが最初に働きかけ、二番手三番手がボールを奪いに行く、ボールを奪い取ったらパスを回しながら全員でゴールを目指す。途中で相手にボールを奪われたら、その際には守備のバランスが崩れているので、全員が自陣に駆け戻り守備に専念する、このスタイルがそれまでのサッカーを古典に追いやる革命になった。近代のサッカーはここから始まった。

 DFは守備に専念するという考えが一般的だった当時、最後尾からドリブルで前に上がって行きそして強烈なミドルシュートを放つベッケンバウアーの存在は、ポジションに対する概念を変えたことではクライフと並んで近代サッカーに大きな転機を与えた。最後尾にいながら攻撃に参加するスイーパー、リベロ・システムというものがベッケンバウアーによって明確な型になった。「ディフェンダーは守備の専門」という従来の概念を覆したのだ。イタリア型の守備システムではスイーパーの役割は相手の攻撃の芽を摘み取る役割に徹していた。そもそもイタリアの「リベロ」という言葉自体が単に「マーク相手をもたず、守備ラインの背後に位置するDF」という意味だった。そのリベロを「自由に攻撃参加するDF」というイメージに変えてしまったのだった。ベッケンバウアーが確立したリベロ・システムは、DFライン後方の深い位置から効果的なパスを繰り出すなど攻撃の起点となり、最後尾からチームを統率し、また機を見て前線に攻め上がり決定的なパスを通すなど、得点機に絡むというシステムを構築し実践し効果を証明した。ベッケンバウアーが示した、ポジションに縛られることなく自由に動く人(リベロ)の出現によってサッカーはまたひとつ大きく変革した。

 サッカーだけではない。70年代の初めの頃、リベロ(自由な人)は我ら団塊の世代が目指したものでもあったのだ。

 

◇ 三菱ダイヤモンドサッカーとアディダスの三本線

 70年代、80年代になっても世界のサッカーの動向を知るのは殆ど不可能なことだった。W杯の決勝戦もNHKのスポーツニュースで報じられることはなかった。唯一、東京12チャンネルの「三菱ダイヤモンドサッカー」だけが世界のサッカーを知ることができる番組だった。毎週土曜日の午後6時から30分間の番組で金子アナウンサーと解説の岡野俊一郎さんの名前はすぐに出てくる。

 86年のメキシコ大会から、録画ではあったがW杯の試合をNHKで観ることができるようになった。ヨハン・クライフもベッケンバウアーもテレビの時代には間に合わなかった。だがそのせいで「伝説」の選手として永遠に記憶される選手になった。

 主将で臨んだ地元開催の74年大会決勝では名手ヨハン・クライフを擁するオランダと激突し、低い前評判を覆しての逆転勝ち(2-1)で優勝に導いた。「強いものが勝つのではない。勝ったものが強いのだ」との名言はこの時のものだ。

 「御言葉」ではないが、グラウンドの上で腕を組んですっと立っている皇帝と「卑怯者にはこの三本線のユニフォームを切る資格はない」というアディダスの宣伝のコピーがついたポスターは今でも覚えている。それを見てからはよく仲間内で「臆病者に着る資格はない」と言い合ったものだ。その時もそして今も卑怯者であり臆病者であったことを自覚しながら、今でも三本線のシャツを着ている。ただ、卑怯であるまい、臆病であるまいと自分に問うことだけは忘れていない。アディダスのシャツを着るたびにベッケンバウアーのこの言葉を思い出す。