3連休の最終日、今日は曇りがちの涼しい日だったので、ちょっと郊外に出かけたよ。行先は、建築石材で有名な大谷町だよ。ぶらぶらと歩いて来たんだけど、台風15号の被害が出ていたよ。
姿川の護岸が流されていたよ。隣接する道路の両端には流されてきた土が堆積していたよ。
川岸に降りる道の手すりにも流されてきたゴミが沢山引っかかっていたよ。床下浸水に被害は無かったのかな?
今日の地元新聞には、足尾の植樹の話題が載っていたよ。旧松木村の村民の子孫たちを招待して、旧松木村周辺の山に植樹を行ったと言う事だよ。足尾山塊が緑に覆われて落石や土砂崩れの危険が無くなれば松木村を訪問するのは楽に成るんだけどね。でも、村は廃石の堆積場に成っていたし煙害で土地が汚染されているから住む事は出来ないけどね。農作物がとれないから・・・。
田中正造が衆議院議員に成ってからの鉱害対策の進み方は、足尾銅山の操業を制限するものでは無くて、鉱毒をまき散らす洪水対策だけに終始したんだよ。
最初、政府は足尾鉱山から鉱毒(硫酸銅を含む金属イオン)が流れ出している事を認めようともしなかった。
しかし、被害が拡大し渡良瀬川流域の農民が被害救済を訴えて東京まで押し掛けるように成って初めて鉱毒調査委員会を発足させた。しかし調査委員会は、あいまいな調査結果を提出して、政府や鉱山の責任をはっきりさせなかった。
しかし、度重なる陳情に、遂には古河鉱山に対して浄水場(沈殿池、ろ過池、堆積場、煙突への脱硫装置に設置を命令した(1987年5月)。
しかし脱硫装置は不完全な物で効果は殆ど無かった。
又浄水場は、たびたびの洪水で押し流されこちらも余り役に立たなかったんだよ。
さらには、鉱山側が洪水に乗じて、廃石や鉱滓を故意に川に流していた疑いも有るんだよ。
そんな事で、鉱毒の被害地域はさらに拡大して行ったんだよ。
大洪水は、渡良瀬川、利根川、江戸川そして隅田川を経由して東京にも被害を及ぼしていったんだよ。
洪水が大きく成った原因は、足尾鉱山が山の樹木を次々と切り倒していったからなんだよ。保水能力が亡くなった山に降った雨はすべて川に流れ込むから急激に水かさが増えて行くんだよんね。
この洪水は渡良瀬川だけではなく、山の反対側の日光山内にも被害を及ぼしているんだよ。日光市内の「神橋」も流されたんだよ。
この洪水が鉱毒を拡散させているのを、政府は手を拱いてみているだけだったんだよ。何故なら、明治政府が進める「富国強兵」政策委には足尾鉱山の銅が必要だったから、鉱山を閉鎖する事は出来なかったんだよ。
そこで政府は、洪水が無くなれば鉱毒の被害も無く成ると問題をすり替え、渡良瀬川と利根川の合流付近に貯水池(遊水地)を造ることにしたんだよ。
最初は埼玉県の川辺、利島村に遊水地を極秘に造ろうとしたんだけど、計画が漏れて田中正造が指導した村民たちが強硬な反対運動を展開したので、この計画は廃止に成ったんだよ。
政府が次に目を付けたのが、合流点に有る谷中村だったんだよ。この計画は明治36年1月10日の臨時議会で決定したんだよ。
それからは、国と県が共同で谷中村買収の為にさまざまな悪事を働いて行ったんだよ。
洪水で堤防が決壊し易く成る様に、所々を半壊状態にしておくとか、破損した堤防を谷中村で修復しようとすると、違法だと言って修復させないとか。
谷中村の中に溜まった水を排水する為にポンプが必要になると、栃木県下都賀郡の郡長が使用に耐えないポンプを売りつけ、栃木県はそれを買い上げたんだけど、料金を水増し請求して県費から支出して、差額分を闇に葬ってしまったんだよ。(多分着服したか、何処かへのわいろにしたか)
そのほかにも、国と県と郡長で谷中村の洪水対策と言う名目で多額の県費や国費を浪費(着服等)して行ったんだよ。
明治35年から37年までの谷中村買収期間に、栃木県が出費した買収資金は108万円なんだけど、買収に架かった費用は約半額(これは土地に値段を故意に安く見積もったから)、残りはお役人様の遊興費や賄賂に回されたんだよ。(いわゆる闇給与ね)
栃木県知事は県議会に警官隊を導入して、反対する県会議員を押さえつけ「谷中村と藤岡町の合併議案」を無理やり通過させたんだよ。
谷中村村会は全会一致で否決拒否したんだけど、1906年(明治39年)7月1日、明治政府は谷中村と藤岡町の合併を決定したので、法律上は谷中村は藤岡町に吸収合併されて消滅してしまったんだよ。
明治37年7月30日に、田中正造(64歳)は単身谷中村に移り住み、谷中村救済の為の闘争を始めたんだよ。
それに対して、栃木県知事は前年比38倍と言う重税を谷中村民に課税して、闘争意欲を失った村民を不毛の地那須野が原に強制移住させたんだよ。(勿論不毛の地とは一言も言わず、農業に最適な肥沃な土地と言う触れ込みでね)
今日はここまでね。続きは次回の更新でね(^_-)-☆











