自分(山男)が其処を訪れたのは2011年7月21日、晴れて暑い日の午後だった。栃木県南部の野木町に有る「煉瓦焼成窯」の一般公開に参加した後に、近くに有るからと思い立って訪ねてみた。この村の事は、学生時代に授業で学んだことしか頭の中に残っていなかった。
現在は、「渡良瀬遊水地」と「谷中湖」で知られているけど、かつては頻繁に襲ってくる洪水で栄養豊富な土が流れ込み肥沃な農地と渡良瀬川の水産物に恵まれた土地だった。
それが今や一面雑草と茅が生い茂る荒れ地と谷中湖と言うレジャー施設で知られるように成ってしまった。何故??
それを検証して書いてみようと思う。
何故、自然の恩恵に恵まれた土地を離れなければ成らなかったのか?何故、村が水の中に取り残されたのか?
簡単には話せない事情も有るだろうし、少し長い話に成る事も有る。
この谷中村は、日光の西側の山を源流とする渡良瀬川と、栃木市を流れる「巴波川(うずまがわ)」、小山市を流れる「思川(おもいがわ)」が合流する所に出来た村なんだ。
渡良瀬川はここから少し下流で利根川に合流する、そして河口近くの運河を通じて隅田川に繋がり、東京にも繋がっている。
一見穏やかな遊水地と谷中湖だけど、台風や雷雨等の豪雨が有った時は完全に水の下に沈んでしまう。
例え遊水地付近で雨が降らなくても晴天で有っても、上流の山間部で豪雨が降っていれば水没するのは時間の問題!
遊水地の中には、住居跡を示す標識が草原の中にさびしそうに立っているだけ。
そして小高い処には、寺院跡の標識と鎮魂の鐘が立っているのみ。
この土地で生活していた人たちは何処に行ってしまったんだろう?
谷中村は1407年(室町時代)には既に農村として人々が暮らしていたと言う。ただしそれは、小さな集落単位で住んで居たのであり、谷中村に成るのは明治時代に成ってから。
人々の生活の後は住居跡の標識と合同慰霊碑だけ。今は野生の生き物たちが人目を避けて暮らしているだけだ。
と言う事で、次回から谷中村について書いて行くよ。(^_-)-☆










