今朝は台風の影響なのか激しい雷雨が有ったけど、10時頃には雨も上がって晴れ間も見えるように成ったね。でも台風は未だ日本の近くに居るから油断はできないよね。明日も雨に成るかな((+_+))
1856年(安政3年)10月20日、巳の中刻(午前10時)に無くなった金次郎の遺体は、今市宿の古刹「如来寺」に移され、11月23日に葬儀が営まれたんだよ。
この如来寺は、文明年間(1469~1487年)に常陸国那珂郡瓜連(現茨城県瓜連町)の常福寺超誉上人の高弟の暁誉上人最勝が開創したんだよ。寺院の名称は「浄土宗 星顕山 光明院 如来寺」と言うんだよ。
文政年間(1818~)頃には森友村(現日光市森友)の来迎寺や湯西川の慈光寺、上町(現春日町)の浄泉寺、下町8元小倉町)の玄樹院、町谷の東光寺等の末寺が有り、境内には宝林院、寿仙院、地蔵院等等の寺院が有ったんだよ。
1632年(嘉永9年)には、3代将軍家光の東照宮参拝の宿舎として御殿を造営して朱印寺領30石を寄進されたんだよ。
家光は3回ここに宿泊したんだけど、1665年(寛文5年)には御殿総てがお寺に下付されたんだよ。
その後、1743年(寛保2年)と1763年(宝暦12年)と2度に渡る火災で堂宇や古記録類を焼失してしまったんだよ。
現在の本堂は1765年(明和2年)に、本門は明和7年に、方丈、と庫裏は1779年(安永8年)に再建されたんだよ。それでも古い建物には違いが無いよね。
又、本堂には、徳川歴代将軍の位牌が安置されているんだよ。
この様な由緒ある寺院で執り行われた金次郎の葬儀には近隣の農民や町人が参列し、その行列は報徳役所から如来寺まで途切れる事は無かったんだよ。
金次郎の遺骸は如来寺の墓地に葬られたんだけど、遺髪の一部は二宮町と小田原、相馬の中村藩に別けられたんだよ。
そして、それぞれの土地で墓石が建てられて供養されたんだよ。二宮に贈られた遺髪は、娘の文子さんの隣に埋葬されて今でも供養されているんだよ。
金次郎の死後、報徳仕法は息子の弥太郎と金次郎の門弟や支援者に引き継がれていったんだよ。
1856年(寛永3年)11月には弟子で金次郎の娘文子の嫁ぎ先である「富田高慶」が金次郎の生涯をつづった「報徳記」を著したんだよ。
1857年(寛永4年)には、金次郎の息子の弥太郎が御普請役に昇進して仕法継続を命じられたんだよ。
今日はここまでね。続きは次回の更新でね(^_-)-☆











