高橋多一郎は文化10年(1813)生れの水戸藩士。
安政の大獄により、徳川斉昭が幽閉されてから斉昭を救出しようと奔走。薩摩の有村次左衛門らと
組んで井伊直弼の暗殺計画を企て、結果、万延元年(1860)三月三日桜田門外で井伊直弼が暗殺された。
その頃、高橋多一郎、庄左衛門らは大阪で薩摩藩の同士を集めて挙兵する計画で、三月五日大坂へ到着
して加見屋という旅館で待つが、薩摩藩では大久保一蔵が慎重派になって予定の3千人の出兵を抑えて
しまう。その後、浪士らは幕府により厳しい詮議を受けることとなる。
高橋親子は四天王寺の塔頭のひとつ秋の坊の北側にあった茶店春日屋まで逃げてくるが、もう駄目らし
いと覚悟を決め、いきなり短刀で腹を刺した。驚いた茶店の主人が、ここで自害をされると迷惑を受け
ます、何とぞお立ち退きをと頼むと多一郎は腹を押さえて歩きだし、四天王寺の門内に入り、大黒堂の
東にあった寺侍小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、後始末の費用にと、六十二両を差し出し、祖先が
武田信玄からもらったという宗貞の名刀を故郷へ届けるよう言い残し、辞世を残し切腹した。享年47歳。
父の自決を見た庄左衛門はその時まだ19歳であったが、父の後を追って自決した。
欣司兵衛が預かったお金で墓を立て葬ったのが、この墓である。(大阪史蹟辞典より)
安政の大獄により、徳川斉昭が幽閉されてから斉昭を救出しようと奔走。薩摩の有村次左衛門らと
組んで井伊直弼の暗殺計画を企て、結果、万延元年(1860)三月三日桜田門外で井伊直弼が暗殺された。
その頃、高橋多一郎、庄左衛門らは大阪で薩摩藩の同士を集めて挙兵する計画で、三月五日大坂へ到着
して加見屋という旅館で待つが、薩摩藩では大久保一蔵が慎重派になって予定の3千人の出兵を抑えて
しまう。その後、浪士らは幕府により厳しい詮議を受けることとなる。
高橋親子は四天王寺の塔頭のひとつ秋の坊の北側にあった茶店春日屋まで逃げてくるが、もう駄目らし
いと覚悟を決め、いきなり短刀で腹を刺した。驚いた茶店の主人が、ここで自害をされると迷惑を受け
ます、何とぞお立ち退きをと頼むと多一郎は腹を押さえて歩きだし、四天王寺の門内に入り、大黒堂の
東にあった寺侍小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、後始末の費用にと、六十二両を差し出し、祖先が
武田信玄からもらったという宗貞の名刀を故郷へ届けるよう言い残し、辞世を残し切腹した。享年47歳。
父の自決を見た庄左衛門はその時まだ19歳であったが、父の後を追って自決した。
欣司兵衛が預かったお金で墓を立て葬ったのが、この墓である。(大阪史蹟辞典より)
四天王寺 大黒天
■場所:四天王寺境内 地蔵山のそば
乾十郎 (1827-1864)
「五條の怪人」と異名を持つ男
大和五條生まれ。天誅組を大和に導き、従軍医師として活躍した。
→(参照)乾十郎「五條の三傑」http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/tentyugumi_5jo2.htm
「五條の怪人」と異名を持つ男
大和五條生まれ。天誅組を大和に導き、従軍医師として活躍した。
→(参照)乾十郎「五條の三傑」http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/tentyugumi_5jo2.htm


