アイボリードールのブログ

アイボリードールのブログ

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!

「どこでもドアの裏側ってどうなってるの?」

 

ネットでいろいろと調べてみたけどなんか怖いことが書いてあった。

どうやら裏側はそのまま表側の風景が見えるらしい。

 

超コエエエエエエエエエエエエエエエエエエ(; ・д・)

 

―ご飯食べてる人でグロいのに耐性ない人はここでユーターンデス。―

 

↓そのまま思考の流れ

 

だって人があるところを境に消えていくわけじゃん?

その断面がくっきり明確になっているなら人の断面出るじゃん?

医学も真っ青なスキャンできちゃうよ(;´Д`)

 

でもどうなんだろう、明確にはっきり境界ってあるのかな?

ドアの断面こっから移動前でこっから移動後ねーみたいなの。

裏側から見てる場合表側から通るときにモヤ的なモザイクはかかるのかな?空間のゆがみみたいなの。

裏から通るとそのまま通れるのかな?それとも見えない壁にぶつかるのかな?

 

境界がはっきりしてて裏から通れちゃったら怖いよ。タイミングによっては内臓触れちゃうよ。しかも体内に直接指が入っている形になるからやられた方は発狂ものだよ。

ん?でも後ろ側から頭だけとか上半身だけとか、ドアの境界を超えてる途中に振り返ったら見えるのはどこでもドアの移動先になるわけで・・・生首状態もありうる?・・・そして例えば指をある程度出した状態でどこでもドアの表側から力がかかると支えるものが何もなくなるということで・・・ということは普通に支えがないから動くわけで・・・というか通った時点で通した部分がかたっぱしから支えがなくなって落ちていくという話になりかねない?・・・だって境界の前後は繋がってるけど繋がってないわけで・・・

 

・・・凶悪兵器かっ(; ・`д・´)

 

というか突然ドアの境の空間からまるで滝のように血と液状化レベルの肉が地面に落ちていく映像とかショッキングすぎて完全に家族向けアニメじゃなくなるというか深夜でもモザイクレベルだよ(´・ω・`)

 

でも上の考え方はあくまで表側から見た景色なわけで、裏側からみたら普通に手はつながってるし表側から見るからおかしくなるわけで・・・でもそうなると裏側から見た表側は本当に連続した空間としての表側なのか・・・?

 

あるいは裏から通ろうとすると何かどこでも境界の穴みたいなのができてその範囲だけどこでも感がなくなる?裏からはもの全体が通るまでどこでもパワーが利かなくなって、途中で戻ろうとすると普通にどこでもドアの裏側に戻るだけとか・・・?

 

というか裏側から通ることができた場合裏側同士でつながってる?いやいやそれは前提条件として間違ってる、裏側からは普通にそのままの風景が見えるはず。・・・ハッ!?そもそも裏側から”表側の景色が見える”という前提条件しか与えられていないのだから空間としてつながっていると考えることが間違い?・・・見える風景は表側のものだけど通る場合はドアの裏側同士が繋がっている?

 

つまり上のごちゃごちゃしたのをまとめると

1)表から移動しているものを裏から見るとモヤのようなもので見えない。

2-a)そのモヤの部分は触ることはできてもそれ以上先には進めない、そして裏から通る場合は通りきるまでどこでもパワーは通用しない。

2-b)そもそも裏側からは不思議な見えない壁で通れない。

2-c)あくまで表側が見えるだけで裏同士でどこでもドアはつながっている。

という条件のどれかであれば問題ないのかな?

 

 

ふぃ~、危うくスプラッターな事件になるところだったよ。どこでもドア危ないよ。

 

というかさ。

 

 

ドアの反対心臓に悪いから板でも張って閉じとけよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!

 

 

ほんま怖いわー。

 

でも結局どないなってんやろな。

ということでなんぞどこでもドアの原理(亜空間?ワームホール?(´・ω・`)知らんがな)とか、ドアを軽く出してるように見えるけどアレあんな細い棒と装飾に未知の機械が詰め込まれてて本来相当重いんじゃね?子供持てなくね?そう考えるといろんな道具の重さ半端なくね?いや軽くて強度の高い新素材でもできたんじゃね?いやいや半重力装置があってだなとか、そういうのはさして気にしないのに変に気になってしまったどこでもドアの裏側でした。

 

地味にどこでもドア自体の内部構造も気になりだしてきたけど今日は忘れよう。そしてそのまま忘れそう。

 

というようなしょうもない疑問を答えの出ないままにポイする文章をたまにポイしていく方針です。

 

※ちなみにひとつ前の嘘つきの独り言は全く次元の違う内容なので気を付けてください。一応あっちが目的でこちらはおまけというか息抜きです。

今日の疑問は、むかーしむかしおじいさんとおばあさんが山にしばかれにいって鬼に半殺しにされた話は関係なく、昔しょうもないし答えも出ないけど気になったことについて随分と真面目に書いてるのを見て、懐かしいなあと思いつつ真面目にふざけて書いてみた物です。

 「皆さん、嘘ついたことありますか?」

 

 この質問にわたくし目を見て大きな声ではっきり「ハイッ!」と答えるような病的なレベルの嘘つき野郎です。というか病気です(たぶん)。考えるより先に口から嘘が出てそのあと頭が働いて焦りと罪悪感とうしろめたさがハリケーンするタイプです。しかも即時訂正できなくてハリケーンマシューがハリケーンニコールを呼んでくるくらい重症です。

 

 で、いい加減嘘をつくのも周りが嘘で傷つくのもしんどいのでリハビリになるかと思いながら、何か形にすれば変われるんじゃないかと思いながらブログを久方ぶりに開いてみることにしました。

 

 ちなみに最近嘘やごまかしで大きな失敗をしてしまい、周りに大きな迷惑をかけてまして。

 今反省しながら周りの人たちに迷惑をかけた分お返しする形で動いているところです。

 

 まず一応前提としてですが、病的なレベルの嘘つきの自覚があるとはいえ、私自身別に誰かをだまして快感を覚えたことはないですし、嘘をつくことに何も感じない人間ではないと思いたいです。

 そんな人間だと突っ込まれれば否定はできませんが。

 というかだからこそタチが悪いんですが。

 

 なので嘘が嫌いという方や最近誰かに騙されて不快な思いや悲しい思いをした方は見ていてイライラすると思います。(心の広い方は嘘つきってこんなこと考えているんだくらいの感じで見てください。)

 この記事を読んでその結果甘えてるんじゃないよとか、それは嘘つきの勝手な言い分でだまされた方はたまったもんじゃない、他人を傷つけて生きていることに変わりはないだろというのであればいくらでも言ってください。

 何せ私の嘘つきライフをつらつらと書いていくわけですからそれくらい言われて当然だと思います。

 

 最初に長々と書くと後で書くことがなくなるんじゃないかという思いにちょっと不安は感じつつもここまで読んでいただいた方にはもう少し、ではないですね、書いていった結果結構な長さになってるので一応時間があるときにでもお付き合いお願いできればと思います。

 

 ということで本日は私の昔話を。

 

 私にとって嘘をつくということが明確に一つの手段になったと思うのが中学生のころです。

 

 昔私の親父は相当厳しい人でした。しょっちゅう手が出てましたし。その分愛情も強い人でしたが。

 お前のことを思っていろいろ言っているのだから口答えするんじゃない、こうすればうまくいくのにどうしてしないんだという様に否定されることが強かったように思います。(その半面いろいろと褒められていたりもしたのでその辺の矛盾がちょっとイカれた私を作る原因の一部かもしれませんが。)

 

 父親のいうことは理解していましたし、愛されていると感じていたので幼いころは素直に従っていましたがいわゆる反抗期だったのでしょうか。自分の考えで動きたいという思いが強くなっていたのだと思います。

 しかし、父親に対する恐怖心があって親父の言うとおりにしなかったことが言えない。でも言われたとおりにただ唯々諾々と過ごすのはつらい。(例えば、勉強以外のことをするたびに勉強したのかといわれるのは鬱陶しい、でもしてないと言うと怒鳴られるし困ったどうしよう。)

 ここで本格的に嘘をつくことを覚えたのではと思っています。覚えていない範囲でたぶんもっと原因はあると思うんですが明確なのがこのあたりなので。

 

 ちなみに嘘に走った要因は上げればいくらでもありますがその辺は複雑になってきますし、最終的にどういう人間が嘘つきになりやすいかみたいな話まで掘り下げることになるので話す機会があればということで。

 

 で、自我が形成される時期に困ったら嘘をついてごまかしてその後つじつまを合わせればいいという考えが染みつきました。それはもうべったりと。びっくりするくらいに。

 

 きっとそれも自分を守るための手段だったということなのでしょう。

 まぁ単なる甘えですが。

 

 それがなかなか払拭されず、また嘘をついたけどその後のあれやこれやで結果どうにかなってしまったことが続いてしまいまして。あれ、これは嘘をついてもどうにかなるのでは?むしろ嘘は使い方次第?という考えがどうやら芽吹いたそばから育ってしまったようでして。

 

 そうしてさぁこれがめくるめく嘘つき人生のスタートですよ!とばかりにそれはもうきれいにクラウチングスタートで飛び出しました。

 

 軽く言っていますが深刻です。というかそれで結果今があるので本当に手遅れです。

 更に嘘をつくことに対して書いているような感じのいいこと知ったぜ!みたいな感じではなく、罪悪感とうしろめたさと焦りで中学生のハートはストレスでボロボーロです。

 

 なので話は逸れますがもし子育て中の方や子供と接する機会をお持ちの方がいらっしゃいましたら、わかっていると思う方も多いでしょうが是非きいてください。

 子供は子供で考えているし間違うこともあるだろうけど、頭ごなしに否定しないでください。

 目を見て、丁寧に、怒らずに話を聞いてあげてください。

 自分のいうことが肯定されない、聞いてもらえないと思ったら嘘をつきます、ごまかします。

 

 それは決して悪意から出たものではありません。

 子供はただ自分を守るすべがわからなくなっています。

 

 嘘をつくことで誰かが傷ついていることを教えてあげてください。

 ただ漠然と悪いこととして叱らないでください。

 悪いことが”なぜ”悪いのか教えてあげてください。

 

 私のような人にならないようにしてください。

 私の生き方はつらいです、寂しいです、怖いです、悲しいです、なによりも幸せじゃないです。

 

 私は人に恵まれていました。家族に、友人に、知人に恵まれ、助けられて今こうして前を向こうと思えました。

 それは幸せなことですが、たぶんずっとそれがしこりとして周りの人に、そして自分の中に残ります。決してそれが消えることはありません。

 

 今あなたが向き合っている命を知ろうとしてください。受け入れてください。

 それだけで救われます。思いとどまれます。嘘つきが一人いなくなります。

 

 なにか変な方向に話がそれていますが、嘘つきなりのお願いです。

 これは嘘じゃありません。

 嘘つきで信じてもらえないかもしれないけど嘘つきだから言えると思います。

 誰かのためにこの嘘つき一人が役に立つなら恥でもなんでもさらします。

 だから信じてください、俺はこうやって嘘つきになりました。

 

 長くなりましたしなぜか子育ての話にそれましたが嘘を手段として認識してしまった(無意識にですが)ところで嘘つきの昔話、第一話を締めたいと思います。

 

 今後また昔話をするかもしれませんがその時はよろしければお付き合いください。

 

 次回嘘をつき続けた結果ちょーっとメンタルがおかしくなった阿呆の話をそろっと書く予定です。予定なのでまだ何もまとまっていないですが、嘘にしないように頑張ろう。

 改めて次回にも書きますが今嘘をついている方は早めにやめた方がいいです。阿呆になります。それはもう壮絶な阿呆になります。これはほんとです。自分で考えても阿呆な私が保証します。嘘をついているが阿呆にならなかったという方はまぁ生き方や価値観が違ったんでしょう。私は阿呆だとは思いますが。

 

私の価値観やらなにやらはともかく今日はここまでにします。止まらなくなりそうなので。

 

ここまで読んでくださった方、読みにくい文章に長々とお付き合い下さりありがとうございました。

 

それでは縁がありましたらまたの機会に。

こんにちばんわ、わたくしです。

今日は言葉遊びというか、哲学的というか、暇つぶしというか、そんな感じのことについてです。

のっけからあやふやですね・・・

で、タイトルの1+1=2、これについて疑問に思ったことはありませんか?

なぜ1+1=2なのか、もっと言うならなぜ1+1=2は常識なのか。

人差し指と中指をつかって、人差し指が1、中指が1、合わせて2、当然ではないか、そう思う方が大半だと思います。

さて、話はここから。

ではなぜ+なんていう記号が生まれたのか、なぜ1の次は2なのか。そもそも1とか2とかなぜそんな記号ができたのか。

ちなみに数字ができた以上計算が生まれるのは当然といえば当然。

数字と数字の関係性が計算になるから。

じゃあ数字って誰が何のために考えたのか。

数字がないと生活が不便だから?じゃあ動物は何で生きてるの?

そもそも数字がなくて困るのは何?

経済?政治?生活?趣味?

今の世の中では数字が存在しない、計算ができないなんてありえないよね。


あなたはこの疑問になんて答えますか?

歴史的にいついつ、どこに起源があって、それが便利で広まったから?

狼が何匹来たか伝えるため?

今日の魚の量を教えるため?

人が増えてコミュニティを作って、階級ができて、上に立つ人が下を管理するため?

大量にものを生産するようになって、争いが起こるようになったからそれを解決するため?

少なくとも意思疎通するための記号だからコミュニティが生まれたからってのはあるだろうけどね。


でも、正直答えなんてないような疑問だと思います。

実際に数字を考えた人ももうこの世には存在しないし、歴史が必ずしも真実という保証はないし。

だから結局人それぞれ、答えも違うし、この疑問の解釈自体も違うと思います。


屁理屈だとか、そんなもの考えるだけ無駄だとか言われるかもしれません。

でも、科学でも歴史学でもそんな何故を追っかけて発展してきたんだろうし、人間無駄なことをしてる時があってもいいと思うんです。

無駄かどうかもわからないしね。

たとえばこの文章を読んで数字の起こりが気になれば歴史を勉強すればいいですし、数字が経済によって生まれたと思った人は経済学を、コミュニティができるにつれて数字が必要になったと思った人は社会学を勉強してみてもいいかもしれませんし。


ちなみに、足し算ができたのは無機質・定量的な物事と感情や愛情など数字では測れないものを区別するためとか、自己表現するのにどうしても必要にかられたからとか、そんな理由でもいいんじゃないかと思います。

すでに自分の中でも何故1+1=2なのかっていう疑問のとらえ方がふらついてる気がしますがおそらく気のせいでしょう。


こんな個人的にはしょうもなくもあり、バカっぽくもあり、そのどちらでもないようなことを考えたり、人と話してみたりするのが案外面白いんですよ?

人は選びますけどね。

というわけで、いつにもましてむちゃくちゃで読む人を選びまくる文章ですが今日はこのあたりでお暇させていただきます。

それでは失礼。