2013/01/29(THU) | Dear my friends

Dear my friends

Hi!SHIHOです!スマホデビューをきっかけに、アメブロデビューです!日常を、自由気ままに書いて行きます。更新は不定期ですが、お付き合い頂けると嬉しいです!!!

相変わらず亀ペースでの更新となっております。

そんな久しぶりの更新がちょっとダークなトピックスになることお許し下さい。




今日1人の赤ん坊が突然生死の境を彷徨うという状況に立ち会うことになりました。

突然車両内に響く我が子の名前を叫ぶ母親の声。

辺りが騒然。

母親が抱きかかえた2歳くらいの男の子は白目をむいて意識を失っておりました。

次の駅で赤ん坊を抱きかかえた母親と周囲にいたサラリーマン達がその親子の荷物を持って下車。

そのうちの1人が非常停止ボタンを押し、更に他の人が駅員を必死で呼びます。

なかなか来ない駅員に苛立つような雰囲気さえ漂い、殺伐とした雰囲気に包まれる。

到着した駅員は救急車を要請し、医療関係者を構内アナウンスで募るも応答なし。

救急車の到着を待つしかないという状況に誰もが焦りと不安を募らせます。

その間も絶え間なく赤ん坊の名前を呼び続ける母親。

そのうち列車が動き出すこととなり数人の乗客がその場に残りあとは車両の中へ。

列車が動き出す直前赤ん坊のか弱い鳴き声が響き渡りその場にいた誰もが安堵の声をもらしました。

その直後に列車は動き出し、最終的に赤ん坊がどうなったのかは定かではありません。

何事もなくまた日常が始まってくれることを祈るばかりです。




この出来事から半日が経ちました。

その出来事が起きた直後は自分の感情に名前をつけることが出来ずにいましたが、

今は自分がショックを受けたのだと思えます。


「命は大事」と教えられ続けた私たちは、

その「大切な命」が失われつつある時に何もできない。

助ける手助けは出来ても直接的に助けるためのことは何1つできない。

消え行く命をただただ看取ることしかできない。

(ポジティブに考えれば、看取ることができるというのだろうか。)

失いたくないという感情が何よりであり、看取ることなどしたくない。

自分の最愛の人が命を失いかけている時、この感情はより大きなものとなる。

何もできないとわかっていながら、後悔し続けるのだろう。

自分を責め続けるのだろう。

どうやってその感情から解き放たれるのか、いつ解き放たれるのか。

そもそも解き放たれる日は来るのか。

もし今日の母親が今日のあの出来事であの子を失うと思うと…

考えたくもない。考えられない。

最愛の人と最愛の時を過ごし、最愛の人との間に生んだ我が子が、

自らの手の中で命を終えようとしているという現実。

必死に我が子の名前を呼ぶ母親にかけることが出来る言葉なんてない。

寄り添える人なんていない。

人は楽しさや幸せには寄り添い、共有することは出来ても、

悲しみに寄り添うことはこの上なく難しい。


命を終えようとしている赤ん坊を見て思う。

人の命はこうして終わるのかと。

あっけない。他人事だから言える冷え切った一言に我ながらぞっとする。

でも感じてしまった、感じたという事実、自分だけが知っている事実。

赤ん坊はこの世に生を受けて何年なのだろう。

人間が生まれて死ぬ意味とは何か?

あの赤ん坊は生きているだろう。そう信じたい。

しかし、もしそこで命が絶えていたら…

生きる意味についてまた1つ疑問が増えた。


命を終えようとしている赤ん坊を見て思う。

自分の生きている奇跡に感謝した。

今日あの瞬間に電車に乗っていられる自分に震えが止まらなかった。

1秒後に生きていれることは奇跡以外の何物でもない。

そう思わずにいられなかった。

人生のとらえ方には諸説あるだろう。

特別崇拝している説はないからどれも都合よく解釈している。

今回の場合は奇跡をしか思えなかったし、そう思うことが自分の中で自然だった。

運命というならそれまでであるが

運命で終わらせるのはひどく簡単すぎる、都合の良い言い訳のような気がした。


医者は毎日のように生死を感じているのだろう。

私は今日の一件だけで相当のショックを受けた。

医者はこんなことを毎日しているのかと思うと、めまいがした。


つまるところ生きようと思ったのだ。

しかもただ生きるのでは足りない気がした。

どう生きればいぃのかは分からないが、ただ生きていくにはもったいない時間の流れだ。

生を感じ、死を自覚する。