breathalyzer
暖かい色の光と湯気に包まれ、水母の触手のような髪の毛を洗い晒す。三日間振りのシャワーで汚染された身体を清める。垢も汗も、皮膚の表面にくっついている死んだ細胞もこの三日間も、一生の穢れも、全部を洗い落としてしまいたい気持ちと、これから始まる新生活に対する希望が武蔵小金井の繁華街の近辺に建つ小さな学生寮の窮屈なシャワールームで混じり合う。壁にかかっている鏡を手で拭い、自分の顔を見つめる。目の前の自分。見返す瞳に可能性を感じる。
17日の夕方。国際親善会が催すクリスマスパーティーに行く予定だった。前日行われた留学生の為のクリスマスパーティーと文芸部の忘年会には行かなかったが、この夜だけの為にスーツまで買っておき、無理を通してアルバイト先の店長に休ませてもらった。出来るだけ睡眠を摂っておき、少し早めに出かけた。
何かを期待していた。
市ヶ谷駅で、集合時間に5分ぐらい遅れた。豪華なスーツに好きなベージュ色のコートと、肩からぶら下がる高価なマフラー。黒い革靴が綺麗に磨かれている。高校時代金持ちごっこをするのが趣味だった僕は、他人の目に入る物を丁寧に揃えておいた。
しかし、何も起こらなかった。僕が期待していたこと何一つも、起こる気配さえもなかった。絶望に沈み、はしごをして居酒屋に入ったら酒をどんどん飲み始めた。シャンパンと、店でよくお客様に渡すことが切っ掛けで頼んだソルティードッグを飲んでから、ペースを上げ、ウイスキーとスコッチとウォッカを飲み干すが早いか近くの店員に声をかけ、次の飲み物を運んでもらった。長いテーブルの向こう側からビールも注いでもらい、視界が朦朧とした。酒が強いかどうか、しっかりと試してみることにした。
そして、終電に間に合うかどうかと心配するどころか、10時頃は南北線に乗り、王子駅の漫画喫茶店に入った。最近愛読していた極道つぶしを読もうとしたが、一巻も読まずに爆睡してしまった。
起きたのは2、3時頃だった。目がすっかり覚めていて、素早く立ち上がって雑誌が並んでいたコーナーに足を強く踏み出して行った。
僕は酔い醒めが悪い。気持ち悪いとか吐き気をするとかという訳ではない。僕は酔いから醒めると強烈な怒りに囚われる。
僕が探していたのは、16日の夜、王子駅の手洗いで見つけた漫画雑誌だった。様式トイレに入って扉を閉めると、その横の台にそれがぽつんと広がっていた。不潔だと思われるかもしれないが、最近不潔なことばっかりしていてこのぐらいなら何とも思わないようになり、その雑誌を手に取ってページを捲らせてみた。そして、あの漫画が目に留まった。浪人の物語だった。有り触れた話で非常に面白かったと言う訳はなかったが、受験に落ちた主人公の嘆きに心を打たれた。あの雑誌を拾って行こうと思ったが結局やめて、次の人が楽しく用を足せるようにそこで置いてしまった。
どの雑誌だったか、なんという漫画だったのか全然分からない。でも、それを見つける為に1時間も必死に探していた。雑誌のところに並んでいたもの全部を調べたが見つからなかった。調べ直してもない。遅くなったので、そろそろ引越しの準備をしないといけなくてホストファミリーの家に帰った。
苛立ちながら荷造りに取り組む。要らない物ばかりなのに、何でこんなにあるのだろう。途中でトイレに行って、指を喉の奥に押し込んで吐いた。腹が痙攣するまで今夜食べたものを吐いてしまいたかった。
荷物が多くて荷造りが終わった時は夜が明けていて、ゴミ捨てから帰ってきてしばらくするとオトウサンが起きてきた。僕に朝御飯を勧めた。彼とは二度と食事をしたくなかったが、断る訳にはいけないような気がしてお言葉に甘えていただいた。パンを食べながら僕の批評会みたいな会話をしていた。出来るだけ速く食べようとした。
荷物を下まで運ぶのをオトウサンに手伝ってもらい、タクシーに乗り込んだ。「さようなら。」一刻も早くその言葉を言いたかった。タクシーの窓から手を振り、新生活に出発した。運転手さんとお喋りをしながら東京の早朝の風景を喫した。
東京は丘が多いが、巧妙な構造で電車ばかり乗っているとそれにはなかなか気づかない。しかし車窓から見える東京は起伏していて魅力的だ。早く運転できるようになりたい。眠気を装い、運転手さんが「寝ていいよ」と言って黙ってくれると、僕は高速道の前に広がっていた街を眺め始めた。