学ぶ | long island sound

学ぶ

先日「学ぶ」を抽象的に記述するように作文を書かされたが、徹夜の狂気で僻まれた清書を見た途端笑いを噴出した。学ぶよりも復讐じゃないかと思った。意見とかどうでもいい、どうせ記述力や文章力を上げる為に書いたものだと思って差し出した。

昨日日本語能力試験の模擬試験を受けてからもう一度学ぶって何だ、ちょっと考えた。何度も進歩したとかこのままじゃ流暢になれるぞとか思っても、何度も先生や知り合いに褒められても、試験の威圧的な成績は黒雲のように低迷していて、落ち込んでいた。積極的に考えると学ぶと共に進化するはずだけど、どんなに勉強しても低い段階に残ったらどうすればいい?学ぶだけで価値があろうか、たとえ具体的な利益を手に入れなくても。

答えは簡単につかない。確か、あの作文の最初の文はこのように書かれた。「学ぶという事は、梯子の横木を一歩一歩昇るように実用的な才能を磨く事である。」キーワードは実用的というのだ。利用できなければ勉強しても無意味だろう。外国語や理科や医学等のことにはそれは間違いない。

しかし、音楽家や執筆者の方から検討すると知識を集めるよりも心を広げるじゃないかと思う。勉強の成果はテストの用紙で確認できるものではなく、勉強の間に痛感した経験かも知れない。執筆者は書き方や他人の文章の勉強から人間性をだんだん分かるようになって、どうやって様々な人の心に触れるのが理解できる。

ならば外国語の勉強に含まれた価値はなんだろう?

その模擬試験の読解の取材として、大人は人生の全てを、何かを得る為にすべきだと思うきらいの記事だった。「受験のために勉強する、健康の為によりよい食事を摂る、収入を得るために働く、明日のために早く寝る、知識を得るために本を読む・・・etc. それはそれでとても大切なことですが、いつもいつも『・・・のために』と目的意識をもって生活するのは、とてもしんどく疲れることです。」

試験を受けていた間頭に入らなかったが、もう一度この記事を読んで、前の二週間のブログに登録された考えに目を通した。毎日の気分の増減をすぐにブログに載るわけじゃないが、そこまで漏れた挫折感がはっきり見える。いつも旅先を目指して、辿り着くように努力すれば、その旅は長いものだと毎日痛いほど感じる。

外国語に含まれた価値は何だろうか、それはまだ知らない。結局ないかも知れないが、一応進むしかない。自分の失敗にがっかりしないわけでもないが、落ちつかなければ早く死ぬはずだ。流暢と呼ばれてくるのはまだ何年間だろうと考えて、日本語の教科書で見た表現を思わせる。

まだまだです。