洒落
昨夜も徹夜して、今日地下から階段を登っていた最中見上げて、窓からの紫色の靄を見た。昨夜も雨が降ったようで、今日も降り注ぎ続く筈だ。二階のラウンジに上がって、其処の窓に近く立って、雨の匂いがぷんぷんしていた。先学期も降雨量が結構多かったし、その香りに色々なことを思い出させられた。プールやクラスに行ったりすることと共に勉強の思いでも有る。それは如何にもつまらない時間だったにもかかわらず、先学期ばかりか、日本語を勉強し始めた二年間半前ぐらいから、いつ何をどのように勉強したか覚える。それに、勉強していた間にどの曲を聴いていたかあっさり思い付く。
その記憶力は毎日の漢字の稽古に磨かれるだろう。部首や音訓を覚えて行くに伴ってその記憶力の勢力範囲が伸長して、日常の出来事を覚えるにも及ぶ。それに前の勉強から学んだことも覚え始める。例えば、今日も知らず知らず暗記してしまった漢字も目に掛かった。冬休みの読書で表れた言葉を全て暗記しようとして、無理に単語一覧表を何枚も書き写した。「奏でる」とは、その言葉の一つだった。何度も書いたが、何ヶ月前の500言葉も含めた一覧表の一言で、すぐ書けなくなった。しかし、先日「吹」という字音訓を覚える為に、「吹く」、「吹雪」、「鼓吹」のように「吹」を含める言葉を一覧表に載せて勉強した。その表には、「吹奏」、「吹奏楽器」も有った。前の思い出を今の勉強と組み合わせて、「奏」という字をまだ勉強していないのに、音読みも訓読みもずいぶん知っているし、もし文章で出てきたら文脈上分かる自信がある。
もう結構過去の事になっているけど、一ヶ月前ぐらいのカンバセーション・テーブルで先生と先輩との会話を思い出す。あの時、文化について話し合っていた。僕の意見から見れば文化とは言葉を通じて伝わるので、日本語を専門している学生のほとんどみたいに、日本語が全く話せなくて、アメリカにおける英語で教えられる日本文化についての授業を取るのが何て愚かだ。先生がその反対に、言語は文化の一部分で、僕のように全く区別するわけにはいかない。日本語で留学した先輩が(彼はこの間述べたライバルだ)言ったのは、文化と言語は並行していて、言葉が分かっても体験がなかったら異文化のニュアンスが分からない。その一方で、異文化に接して、体験や異文化に関する知識を集めても言葉が分からなかったらその異文化の一部も理解できない。「例えば、『さくらんぼ』という日本語の言葉が分かっても、食べたことがなかったら唯の言葉で、文化を伝えられない。確かに、この場合に日本のさくらんぼがアメリカのと比べたらもっと小さくて酸っぱくて、日本人にはそういう意味も有る。日本でさくらんぼを食べたら、『これはさくらんぼと言うよ』と教えてもらえば、文化も言葉も味わえる。このように言葉と文化が絡み合っている。」
面白い話だったけど、そこまで分かったとは言葉が通じていたからだ。というわけで今までのように勉強し続けます。