欲望のままに生きることは自分らしさと言えるのでしょうか。恐らく違っていて、そうしていると現実的な側面或いは物質的な理由などから問いかけがやってくることによって本当は何をやるべきであるかに気づかされるのです。

 

 

 

では、欲を抑えて生きることは自分らしさと言えるのでしょうか。それもまた恐らく違っていて、破滅を畏れ欲を抑えようとする意識はやがて、無意識との分断を生んでしまいます。そうしているとその意識を取っ払おうとする力が働き、自分の身の回りにあらゆる誘惑がやってこようとします。そして欲に従った結果、自我(意識)の消滅を迎えることになり、再び意識と無意識が偏ることなく安定した状態となります。



では、一体どう生きるように求められているのか。人によっては人生を常に監視されている感覚すらあるかもしれません。きっと自分らしく生きることを求められているのでしょう。でもそれは、ある側面のみの自分だけの生き方であってはならないのです。

 

 

 

つまり、総合的に勘案されなければならないということです。正直なところ、私には怠惰に生きたいという気持ちが少なからずとして存在しています。しかしそれは私の願望のひとつである一方で、その気持ちによって全ての私の願望を満たせるわけでは勿論ないのです。

 

 

 

それは、もしかしたら、昔やっていたけれど、諦めたことかもしれません。それは、もしかしたら、状況や時代が許されるのならやってみたかったことかもしれません。それは、もしかしたら────。

 

 

 

おそらくそういった一つひとつが自分を形作る願望であって、それら全てが自分を生きる上で重要なことなのかもしれません。

 

 

 

そして、そういった自分らしさ、自分らしく生きるということにおいて、気づきを与えるものの一つに欲というものがあるのかもしれません。要するに欲が湧いてくることは、自分らしさに偏りがあるという潜在的なメッセージなのだと。

 

 

 

欲そのものもまた、願望の一つとも言えますが、本質的には不足感からくるものであって、実際には精神状態の綾のようなものと言えるのかもしれません。

 

 

 

ただ生きていれば、向上心周囲との比較、一時的に訪れる精神的な不安定さから欲が生じてしまうものです。

 

 

 

だからそれが発生したという時点において何かしらの対処を迫られていて、流されすぎず、かといって抑え込まない自然な感性が求められています。

 

 

 

そしてその欲は単なる解消に収まらなければ、自我の崩壊に繋がることになります。

それは、自分に戻る上で必要な過程ではあるものの、あまり何度も経験したいと思える代物ではありません。

 

 

 

だからこそ、ある意味で無欲でいることは幸せなのだと思います。そしてそれこそ最も自分らしい状態なのかもしれません。周りがどうとかではなく真に自分本位で生きていると言えるのだと思います。
 

 

 

そうする上で自分を知ること、受け入れることは特に大切です。自分の軸を持って生きることがその先にある自己統合への道にも繋がっているのだと。

 

 

 

日々学びです。。。

 

 

 

それでは、また。