なんか調子よかったのにいつの間にか調子悪いことになっていって調子よかった以前の状態にすら戻るのが難しい状態に陥ることって結構あるんですよね。

 

 

 

なので、色々試してどうなると調子が悪くなるのかとか、そういう兆候みたいなものを記録して自分で実験していたわけなのですが。

 

 

 

周りに影響されてだとか、こういう食べ物食べがちだなだとか、原因は色々あったわけですが、一番に影響が顕著だと思ったことはそもそもの話、影響があまりないから大丈夫というマインドそのものにあったということです。

 

 

 

実際のところ、外的要因によって影響を受けて調子が悪くなることもあるわけですが、自分で決めたことから外れて自分軸が不安定になってしまうということのほうが後々に大きく響いてしまうのだなと度々に痛感しているところです。

 

 

 

調子のよいときはたまたま影響を受けにくかっただけであって、それが少し落ちてきた途端にあらゆる影響が一気に表面化してしまうということが幾度となくありました。

 

 

 

ただそれには経験してみないことには分からないことのほうが多く自分を試し過ぎてしまい結果随分と長い間苦しむことになってしまいました。

 

 

 

結局のところ影響を受けないものはなくて、ある程度自分の中で定量化していくことが大切なのかと思います。

 

 

 

もし仮に周りの状況のためにスランプが訪れてしまうなら。

 

 

 

そもそもそういう状況にならないように自分を導いてあげる必要があって、周囲を責め立ててもやはり手遅れなのです。

 

 


うまくいっているときの好奇心もまた、身を滅ぼすトリガーになり得るので注意したいものです。

 

 

 

たまたまの好機に浮ついてそれを手に出来ず何度と後悔しました。或いは手にしたのもつかの間、自分の手から数日と経たずに消えていくこととなりました。

 

 

 

繰り返し遭遇するパターンは思考や習慣の癖からやってきて、そしてそれはおそらく向き合う人生のカルマやテーマとなっているのでしょう。

 

 

 

そしてそれらはやはり偶然ではない。

 

 

 

我を失い失敗に失敗を重ねて、そうなってようやく正気に戻ってくるわけですがそれが一連の人生における学びなのでしょう。

 

 

 

結局のところ、最も大切にすべきは自分の感覚、それも特に平常時における感覚なのだと思います。振り返ってみれば平常時に感じたこと、決めたこと、それらはおそらくほとんどの場合で間違っていなかったと思います。でも調子に惑わされて状況や環境に惑わされてその感覚・判断を貫くことが出来ませんでした。

 

 

 

だから、今度こそは間違うまい、そう思って生きています。ただその状況というものは本質的には同じでも姿形を変えてやってくることがほとんどです。

その見てくれに騙されて感覚に従うことができなければ、またいつものパターンへと再び誘われてしまいます。

 

 

 

だからこそ、惑わされずに自分を信じたいわけですが、そのためには日ごろから信頼できる自分でいる必要があるのだと思います。

 

 

 

それが自信となって軸となる。それがないがために影響を受けてしまう。

 

 

 

スピリチュアルにおける統合の段階でも、周囲からの影響を受けないように一度内へと引きこもる段階を経ることがありますが、それでも最終的には外的世界と接触しながらも自分らしく生きるという段階へと移行していきます。

 

 

 

影響を受けないではなく、影響を受けても自分らしくある。それがおそらく真に追求すべき姿なのかもしれません。

 

 

 

 

いつかそうなれるように・・・
先は長いかもしれないし、すぐ目の前にあるかもしれません。

 

 

 

それでは、また。