と、言っても。


日本の中でも、ごく限られた地域の世界しか知らない私です。


海外のことや、県外のこと、私の知らない地域事情は知りもしないままこのブログも書いています。



今朝ふと頭に浮かんだワード。

それは「けなげ(健気)」という単語。


このコロナ禍で顕著に出たのではないでしょうか。


いかに、日本人が健気か。

ここでいう「健気」とは、心掛けや態度が真面目でしっかりしており、困難な状況でも立派に立ち振る舞う。そんな意味で使っております。

自己犠牲、という皮肉も含めております。

自分の感情は押し殺してでも、立派に立ち振る舞う。

違いますかね?

違っていたらごめんなさいね。


「みんな、健気ね」という発言は上からの物言いと感じる方もいらっしゃるでしょう。

私も上からの物言いよね、と自覚していますから。


美徳の部類に入る、健気ということ。


そこに疑問を持つのです、私は。


美徳という言葉に振り回されてはいないか。


美徳という正義の圧力に押し潰されてはいませんか?


「優しい人とは強い人」そんな事を聞いたことは無いでしょうか。


美徳も同じだと思うのです。


美徳という正義の圧力に押し潰される様では、真の美徳を持つ人では在れないと思うのです。


美徳とは、そんな容易く誰しもが持てるものではない。


もちろん、日本の秩序が保たれているのは、美徳という正義がうたわれる世界で、健気に生きている人が多いからでしょう。


しかし、どうでしょうか。


それらの正義という圧力に耐えきれなくなった時に、人がとる行動の醜さ、愚かさ。

そして自己犠牲が過ぎ、崩壊する精神。


それが正義でしょうか?



理解し難いかもしれませんが、美徳とは人から教わるものでも、強要されるものでもなく。

自分自身で感じ、とる行動だと思います。

内面から滲み出てくるものであり、頭を使って行うものではない。

誰かが決めて、人から教わるのは、マナーなのです。美徳とは違う。

いえ、もしかしたら今ここで使う言葉として「美徳」が相応しくないのかもしれませんね。



私自身、長い間「真面目」を欠点と感じるほどの真面目人間だと自負して生きてきました。

振り返り思うことは、やはり私が感じていた私の「真面目」は、社会に縛られていた部分の様に思います。

自分に対して真面目に生きる事とは違う。


自分はどう感じ、どうしたいのか。


自分に正直に生きられない者が、真の美徳者といえるのか。


それでも「美徳」を疑わず、日本人は健気に生きている。