前回の話の続きです。

今回は、以前用いた実写版白雪姫を

引き合いに出しての話になります。

 

ネガティブな話になりますので、

そちらはご容赦ください。

 

 

 

 

まず、自論ではありますが、

全体の結論から書きます。

 

 

平等と公平は、

物理的に実現することはできません。

 

なぜならこれは、

愛や正義、自由といったものと同じく、

『概念』だからであり、

概念を物理的なものとして

社会に実現させることは、

必ず大きな過ちを生み出してしまうからです。

 

 

平等、公平、愛、正義、自由。

などなど。

他にも様々な、

私たちが美しい、尊いと思う概念が、

この世界にはたくさんあります。

 

しかしこれらは、

様々な事象の中に見出すことができるのみで、

「これが正義だ」

「これが平等だ」

といったふうにあらわすことができないのです。

 

前回用いた平等と公平を表す図が

よく見れば矛盾だらけなのも、

そのためです。

 

 

愛と性欲の違いはなんでしょう。

正義とエゴの違いはなんでしょう。

 

自由と無法は法の有る無しで語れるでしょうか?

ではその法を定めたのは誰でしょうか?

 

 

この世界に確かにあるのに、

決して目で見て、手で触れることのできないもの。

しかし、作品などの表現を用いたり、

あるいは人々の営みの中に見出すことのできるもの。

 

それが、公平や平等なのだと、

筆者は思うのです。

 

 

 

 

さて、それを踏まえて、

実写版白雪姫を用いて

平等と公平を語ってみたいと思います。

 

 

 

ここから、

作品に対するネガティブな描写が出てきます。

 

ですが、

あくまで思想として語るものなので、

実写版白雪姫をこき下ろしたり、

「よって、あの映画は

 見る価値の無い駄作である」

というふうに結論付けるものではありません。

 

むしろ価値の有る無しで言うなら、

これだけの考察、思案の機会が得られたという、

大変価値のある映画だったと言えます。

 

 

 

 

それでは、まいります。

 

 

 

 

まずは、黒雪姫と揶揄されても仕方の無い、

褐色肌のヒロインについて。
 

白雪姫のオーディションがあって、

そこにエントリーする権利はすべての人種に平等に与えられています。
それは当然です。
 

そして、演技力、歌唱力、表現力において、

レイチェル=ゼグラーが選ばれたと仮定します。

これは仮定です。
 

率直に言って、彼女と同程度の技術をもった役者など

他にいくらでもいたはずですから、

並みいる役者を押しのけて彼女が選ばれたのには、

何らかの下駄が履かされたのだろうと邪推しています。
 

とはいえ、

とんでもない棒演技でもありませんし、歌唱力も十分です。

表情や身体的表現力も、

確かに一流レベルのものを備えているでしょう。
その点は疑うべくもありません。

ゲーム的表現ですが、仮に白雪姫役を獲得するのに、
演技力:90/100
歌唱力:90/100
表現力:90/100
年齢 :30歳以下
性別 :女性
という能力値が必要であったとするなら、

彼女はその能力を満たしていたでしょうし、

仮に他にその条件を満たした役者が複数いたとして、

それが厳選な抽選、

もっというとサイコロでも振って

完全ランダムで決められた結果であるとするなら、

それは公平でしょう。


しかし、これは白雪姫です。
彼女に与えられたのは、白雪姫というキャラクターです。
『雪のように白い肌と、黒檀のような髪、血のような赤い唇をした』

と原作で語られていた容姿を

できるだけ忠実に再現した、

純真無垢な少女です。
 

その少女を表現する存在として、

本当に公平かつ平等な視点から

レイチェルという女性が選ばれたのでしょうか。

「今まで黒人や有色人種には

 主人公やヒロインを与えられる機会が無かった、

 だからそれを与えることで今までの差別を無くそう

 ……いいえ、
『無かったこと』にしよう」

映画というエンターテイメント、

作品に忠実であるという表現の基本に対して、
何の敬意も無い社会的政治的正しさが押し付けられた結果、
あらゆる公平や平等を押しのけて

彼女が選ばれてしまったのではないか。

そんなふうに思えてならないのです。



勇敢で知的で平等な女性を描くという目的で

レイチェルをヒロインに映画を作ったというのならば、

それは公平でしょう。
 

しかし、勇敢で知的で平等な女性の象徴として

白雪姫を宛がうというのは、

どう考えても不公平であり不平等であり、

不自然で、不公正です。

この世界には勇ましく美しい女性を主人公にした作品が幾つもあります。
ディズニー映画に限っても、

アラジンのジャスミンもそうでしたし、

美女と野獣のヴェルもそうでした。
ムーランはその典型でしょうし、

これから製作されるモアナも、きっとそうでしょう。
もっと言うなら、前回語った眠れる森の美女も、

そういう風に捉えることはできるはずです。

 

なぜ、勇敢だとか知的だとか、そういった要素とは最も縁遠い、
お人好しで純真無垢で、

世間知らずでバカ正直なヒロインである

白雪姫という題材を選んだのでしょう。
なぜ白雪姫を用いて、

新時代の女性を表現する必要があったのでしょうか。



穢したかったのではないでしょうか。

 

白雪姫という、ディズニーアニメの象徴であり、
穢れを知らない純真無垢なヒロイン。

恐らくは今まで多くのクリエイターたちが

畏敬をもって実写化しなかったであろう、
多くの少女たちの憧れのひとつだったお姫様を、
『凡百の女性のひとり』に貶める。

そういう目的を持って、

制作されたのではありませんか?

その目的のもとに、

公平かつ平等に人選がされていったのではありませんか?

なぜなら、今まで有色人種を迫害してきたという

「不公平」や「不平等」を

「無かったこと」にしたいから。

『白い肌を持った、皆の憧れのプリンセス』を

『褐色の肌』に挿げ替えることで、
免罪符を得たいと思った者たちがいたのではないでしょうか。

 

「これがみんなの新しい憧れだ」

と語ることで、

今までの差別や迫害を

無かったことにしたいと考える者たちが

いたのではないでしょうか。



そうであると仮定するのならば、
まさしく実写映画のなかで語られた美徳である
「おそれしらず」
とは、
「畏れ知らず」
畏敬を欠いた無知な無礼として、

ピッタリ合うように思えるのです。

その象徴として、傲慢で不遜な発言を繰り返し、
トランプ大統領を当選させた多くの有権者に対して
「平穏が訪れませんように」
と願ったレイチェル=ゼグラーは、

まさしく
『白人男性という支配者に真正面から噛み付く

 畏れ知らずな女性』
という配役として、これ以上ないほどの適任でしょう。


長くなってしまいましたので、

今回は一旦ここで締めます。

 

次回は、

平等や公平を実現しようとすることの歪み

のようなものを語って、

結論としようと思います。

 

 

『平等や公平は実現できない

 だから求めることは間違い』

という意味でないことは、

事前に申し上げておきます。

 

むしろ、愛や正義と同じく、

何よりも大切なものだからこそ

不用意に具現化するものではない。

 

 

「これは平等か?」

「これは公平か?」

と尋ねられれば、

それに対して是非を返すことはできる。

 

けれど

「これが平等だ」

「これが公平だ」

という事例をもって語ることは、とても難しいもの。

それが、筆者の考えです。