いきなりですが、
来月2023年10月29日、
筆者が共同主催を務める演劇団体で、
久しぶりに朗読公演を行います。
小さな劇場です。
お客さんもいっぱいにつめて30人もいたら、
隣の人と肩が触れ合ってしまうのではないかと
思うくらいの、
そんな規模です。
なので、実際はせいぜいが20人そこらが
良いところでしょう。
なんでわざわざこんなことを書いたのかというと、
ようやくこういう規模での
演劇をやっても良いよね
という空気感になったなぁという
喜びからです。
思えば2019年。
厳密には2020年の4月でしょうか。
外に出るな、
人に会うな、
演劇なんてもってのほかだ。
遊びに行く?
飲み会に行く?
映画に行く?
旅行に行く?
そんなヤツは周りのことを何も考えていない
自分勝手な悪い奴だ。
そういう論調が、
当たり前のように世間に蔓延していました。
少なくとも筆者は、
そういう空気が漂っていたように思います。
あれから3年経ち、
ようやく演劇ができるようになりました。
役者の息遣いや、
目線の動きや、
本人の醸し出す気配みたいな、
その場、その空間を共有しないと感じられない、
「よく分からないけど確かにある何か」
を、大手を振って味わえるようになりました。
筆者はそれが、
もうとにかく嬉しいのです。
同時に、
こうして演劇ができるようになるまでのあいだ、
演劇のみならず、
表現芸術というものが
この世界に存在する意義
みたいなものも考えたものです。
共産主義社会において、
芸術は無駄飯食いとして
弾圧されました。
あれはつまり、
人間から考える力、感じる力を
奪い取るための政策だったのでは
ないでしょうか。
考えること、感じることをやめさせ、
今日の飯のことだけを考えさせ、
それを取り上げられる恐怖を与えることで
人間をコントロールする。
そういう方向性でもって、
社会を運営しようとしていたのでは
ないでしょうか。
すなわち表現芸術とは、
表現する側、
それを観る側それぞれに
今までに無い何かを感じる、
考えるキッカケのようなものを
提供することが、
大きな役割として与えられているのだと
思うのです。
思想や価値観の押し付けではなく、
あくまで提案、提供です。
だからこそ、観客側もそれを
面白い、つまらないと
自由に感じ取って良いのですし、
それもまた、ある意味での
表現の自由なのです。
けれど、ふと思うのです。
表現の自由、
表現の自由と、
自由ばかりがことさらに
重要視されている風に聞こえますが、
自由の対比としての、責任
すなわち、
表現の責任
というものは、あるのでしょうか。
そしてあるとしたら、
それはどういう在り方なのでしょうか。
筆者も、これという正解は知りませんし、
恐らく100人に訊いたら
100通りの答えが返ってきそうな、
ある種の禅問答のようなもの
なのかもしれません。
次回は、その禅問答としての
表現の責任
みたいなものについて
語ってみようかと思います。
稽古だったり、
脚本の修正だったりで、
こちらのブログを
更新する頻度が少し減っていますが、
そのときはいっそ、
稽古日誌的なブログを
書いてみるのも良いのかもしれませんね。