風邪でダウンしたせいで、

少々間が空きましたが、

からだの声を聞くというテーマで

語ってみる、4回目です。

 

 

前回は

「ノイズの除去」

という角度から、

消化吸収という行為が

からだの声を阻害するノイズになる

可能性を語りました。

 

基本的には、

食事はからだにとって良いものです。

私たちの肉体は半年前に食べたものでできている

という言葉もあるくらい、

からだのあり方そのものに、

密接にかかわっているものです。

 

だからこそ、

暴飲暴食や栄養過多を避け、

からだが今、求めているものを

適正な形で提供することの大切さを

色々なパターンで考えて欲しいと思うのです。

 

 

とはいっても、交感神経過剰になる

私たちの社会生活を送るうえで、

副交感神経系の刺激のための食事

という観点は、

ある意味で仕方のないものである

と割り切る必要もあるかもしれません。

 

体に悪いと分かっていても、

油っぽい食事が食べたくなりますし、

後悔するかもと思いながら、

ラーメンやパフェを思いっきり食べたくなる

衝動に駆られることは、

筆者も多々あります。

 

そういった欲求を完全に押し殺していくと、

今度はそれがストレスになって、

逆にからだを壊してしまう原因になりかねません。

 

 

からだにとっての適切な栄養を与える食事と、

美味しいという幸福感を得るための、

いわゆる心の食事とは、

別物であると分けて考えるのがベターで、

 

心のゴハンと、体のゴハン

というふたつの観点を持ってみることが

食事管理やファスティングを

スムーズにする第一歩ではないかと思うのです。

 

 

そう考えるなら、

筆者はマンガ、アニメ、ゲームという方法で

心の栄養を確保できますので(笑)

食事による幸福感を得る分量は、

一般の方より少なく

抑えられているのかもしれません。

 

また、一般の方と比べて

大多数の人に囲まれて仕事をするという

人間的ストレスに晒される時間も少ないため、

それが過度な食事を求めなくても良い

環境を形成している要因とも考えられます。

 

 

しかしだからといって、

ある種の世捨て人のような生活をして、

はじめて

「自分のからだと向き合う機会」

を確保できるのだというのは、

あまりにも極論すぎます。

 

一般社会で、多数の人々に囲まれながら

それでも自分のからだと向き合う

機会を得ることは、

難しいかもしれませんが、

十分に可能であると考えます。

 

 

なので今回は、

ひとつの目安のようなもの

を語ってみます。

 

それは、

「伝統を知る」

「伝統に則る」

という観点です。

 

俗な言い方をすると、

「おばあちゃんの知恵袋的な知識を、

まずは尊重してみる」

ということです。

 

 

 

現代はさまざまな情報に溢れ、

多くの知識や経験を学ぶ機会に

恵まれています。

 

しかしその一方で、

情報がありすぎるあまり、

何が正しいのか、

何が自分に合っているのかを

知ることが難しくなっている

という弊害もあります。

 

 

周りの人、みんなが良いと

言っていることであっても、

私個人には合わないこと、

適していないというケースも、

往々にしてあるはずです。

 

仕事をはじめ、

様々な状況に応じて、

合わないこともこなさなければいけない

そんなシチュエーションもあるでしょう。

しかし、こと「健康」という点においては、

その忖度がマイナスを作り出す可能性は

大いにあります。

 

 

では、

その余計な忖度をしなくてもいいために、

自分に合ったやり方を見つけるために、

自分のからだから発するメッセージを

キャッチしやすくするために、

どうすればいいのか。

 

その方法のひとつとして、

「長年の経験から良いと言われている方法を、

まずは試してみる」

ことを挙げたいと思うのです。

 

 

伝統なり経験則なりといったものが、

なぜ一定の価値を持っているのか。

 

それは、

時間という批評に耐えてきた

からです。

 

私たち人間の紡いできた

長い長い歴史の中では、

その時その場所に応じた、

様々な思想、

その思想に基づいた手段が

生み出されてきました。

 

そしてその多くは、

状況打破のための、

いわば対処療法的な

手段であったはずです。

 

 

その中から、

多くの人の批判に耐え、

時間という経年劣化に耐えつつ

今日まで残っている方法というのは、

その場しのぎ的なものではなく、

何らかの形で的を射た、

人間のあり方の理に適ったものだったから

だと考えることができるのではないでしょうか。

 

 

 

伝統のすべてが正しいわけではありません。

伝統を重んじるあまり、

伝統を守ることそのものが目的になるのは

愚の骨頂です。

 

しかし、伝統とはいわば

無数の人間の知識と経験の集合体である

と言えます。

 

であるならば、

何が正しいのか、

何が自分に合っているのかを

探るためのひとつの縁とするには、

これ以上無いほどに

有効なものではないでしょうか。

 

 

 

頭は冷やして、足は温める、

頭寒足熱の考え方しかり。

 

ショウガ湯などの、

からだの内側から温めることで

風邪を予防する食文化しかり。

 

 

自分のからだが、

何を求めているのか。

どういう方法を良しと受け入れるのか。

 

それを知るためにも、

まずは伝統的、

クラシカルな方法で

からだにかかわってみて、

その反応を見たうえで

次のアプローチを考えてみるのは、

悪くないのではないかと思うのです。

 

 

人間の知識や技術は、

日々もの凄い勢いで進歩しています。

 

しかし、人体の仕組みそのものは、

1000年前とそれほど極端に

変わってはいないのではないでしょうか。

 

もしそうであるのならば、

昔の人が見つけ、

今もなお「良い」とされている

アプローチを試してみるのは、

ある意味での最短距離かもしれません。