今回でこのテーマは締めです。

 

前置き無しでまいります。

 

 

前回語ったとおり、

勇敢で知的な女性を描くという目的で映画を作り、

そのヒロインにレイチェルを宛がったのであるなら納得しますし、

むしろ適役だと思います。
 

しかし、なぜそれの女性に白雪姫という題材を、

わざわざ選んだのでしょうか?
 

 

原作に対する畏敬はどこへ行ったのでしょうか?
 

白雪姫という作品のどこに、

現代的な美意識を見出したのでしょうか?

本当にそれは、

公平で平等な視点であったと言えるのでしょうか?


今まで有色人種を迫害してきたから、
これからはその分だけ逆に優遇するのが

公平で平等なのですか?

今までは男性が社会運営を担ってきたので、
これからはその分だけ

女性に社会運営を任せるのが公平で平等なのですか?


どう考えても、それは不公平で、不平等です。

なぜなら、男性と女性はまったく別の存在であり、
白人と黒人、黄色人、褐色肌、

それらはすべて異なる存在だからです。

できること、得意なことが違う者に、
すべて同じことができるようになれというのは、
不公平であり、不平等です。



もう一度、こちらの図をご覧ください。

 



塀があるからこんな差別が生まれるんだ、
誰でも自由に野球が見られる空間を作るんだ、

……と

 

そんな理想を求めて塀を取り去って、

試合中に野犬が乱入してくるような自由をも認める野球場は、

果たして公平で平等な、

多くの人が野球を楽しむための野球場になるでしょうか。

 

作りたかったのは、

『多くの人が野球を楽しめる場』

だったのではないですか?



人種をはじめ、すべての人間存在に対して

公平かつ平等な世界を作るために、

国境という塀をすべて無くした世界を作ったとして、
それは本当に自由で幸福な世界でしょうか。

むしろ逆に、暴力がすべてを支配する、

弱肉強食の世界に逆戻りするように思えませんか?
なぜなら、私たち人間に与えられた公平かつ平等な尺度は
『頭がひとつ胴体がひとつ手足が二本ずつある身体』
くらいしか無いからです。
その世界には恐らく、

私たちに幸せや豊かさを与えてくれる文明も文化も

生まれることは無いでしょう。

そんな世界に生きていたくはありません。




では、有色人種の白雪姫なんて、
そもそも作ってはいけなかったのでしょうか?

それも違います。

以前のブログでも書いたとおり、
中堅どころのスタジオが、
社会の当たり前に対して疑問を投げかけるという意味で、
「こういう美しさもアリじゃないか」
というメッセージを込めて作ったとするなら、
恐らく受け入れていたでしょう。

しかし、今回白雪姫を作ったのは、
ディズニーです。

原作を持っている本家本元のディズニーが、
自身の原点とも言える白雪姫を実写化したというのなら、
可能な限り原作に対して忠実に作るのが、
ウォルト=ディズニーに対しても、
多くのファンに対しても、
公平で平等で公正で、誠実な姿勢というものではありませんか?

それを敢えて、わざわざ、あからさまに外したものを作って、
「新時代の白雪姫」
「新しい理想の女性像」
として受け入れろなんて、無理筋もいいところです。


 

 

2021年からはじまった

バイデン大統領によるアメリカの政治は、

「優しいアメリカ」

がひとつのテーマだったように感じます。

 

しかし、知性の無い優しさは弱さに直結します。

困っている人は誰でも受け入れようといって

南部国境を開いた結果、

フェンタニルをはじめとした中毒性、致死性の高い麻薬が蔓延り、

映画サウンドオブフリーダムでも語ったような、

不法移民の大量流入と、それに伴う人身売買が横行しました。

 

傷痍軍人を保護するための施設は、

貧困難民を受け入れるために解放させられ、

アメリカのために戦った軍人はホームレスになり、

施設では難民が家族を連れて過ごしていました。

 

 

「平等」の美名のもと、

アメリカという国、

アメリカという社会が切り売りされた時代。

 

それが、自分が感じる

バイデン政権の4年間であり、

そのさなかに制作されたであろう実写版白雪姫は、

ディズニーというアメリカを象徴するもののひとつが

切り売りされた結果生まれた作品だったのではないか。

 

そんなふうに思うのです。

 

 

 

願わくば、

愛する日本の漫画やアニメ、ゲームが、

弱っちい骨抜きの作品にばかりなって欲しくないと

願わずにはいられません。

 

強くてカッコいい主人公が悪を倒す漫画でいいじゃないですか。

可憐な少女がみんなの憧れの王子さまと結ばれるアニメで

いいじゃないですか。

 

悪には悪の理由があり、

実は正義の側が悪を虐げていたのだから

悪にも優しくしないといけないとか、

 

憧れの王子さまはひとりだけを愛したら不公平だから

すべての女の子を全員愛さなきゃいけないんだとか、

 

そんな作品ばかりになったら、

ハッキリ言って嫌です。

そういうのは変化球としてあるから面白いのであって、

『多くの人から長年愛されてきた古き良き王道』

は、絶対に外してはいけないのです。

 

そこには不公平があるでしょう。

主人公になれない者、

引き立て役として犠牲になる者、

虐げられたまま報われない者、

などなど。

 

すべての登場人物を平等に描くなんて

不可能です。

そんなことをしたら表現が成り立ちません。

 

群像劇として、すべての登場人物の出番を

できるだけ平等にするというコンセプトの作品なら

それもアリでしょうが、

作中での役割や立場、迎える結末など、

すべてを平等、公平にすることは、

やはりできないのです。

 

 

 

 

『公平』や『平等』は、

尊いものです。

私たち全員が、目指すべきもののひとつです。

 

しかし、それを物理的に体現しようとすると、

必ず矛盾が生じてしまうのです。

 

 

それでも敢えてそれらを体現するならば、

『創作の自由、表現の自由は、

 人種、身分を問わず、

 すべての人に平等に与えられ』

『それによって生じた結果は、

 公平に記録され、残されてゆく』

そうあって欲しいと願い、

締めとしたいと思います。