キョンシー | 昭和だった

昭和だった

昭和の最後、まだ私は小学生でした。
今思い返すと、おおらかな時代だったな、と思います。
その時代を思い返しながら、きっと今も、もっとおおらかな育児でも子どもはすくすく育つんじゃないかな、と思いながら書いていきたいです。



    

昭和が終わる頃、
小学3年だった私の記録です。

今よりおおらかだった時代を思い出して、
今の子育てにも何か繋がるといいな、という思いで綴っています。
(登場人物はみんな仮名です。)

時々今の子育てのことも。


今も行われているお楽しみ会。

私たちの時もそれはあって、学期の終わりとかに開催されたクラスの遊び会であり、発表会でもあった。

三木美紀子先生のクラスは、いつも、班での出し物がお楽しみ会にはあった。

当時、キョンシーのテレビ番組が流行っていて、みんな虜になっていた。

テンテンは私とえりちゃんの憧れだった。

私とえりちゃんと、こうちゃんと、他に男の子2人が同じ班だったとき。

私たちはキョンシーの劇をすることにした。

テンテン役は私とえりちゃん。

こうちゃんたち男の子はキョンシー役だ。

決まったその日の放課後から、えりちゃんと私は大忙しだった。

いらないノートの切れ端を片っ端からパンチで穴を開け、パンチにたまった丸い紙切れを、もち米にした。

黄色いお札を何枚も用意した。

セリフを考え、ノートに書き留めた。

うんと考えて、準備もして、練習もしたのに、

当日はうまくいかなかった。

もち米は固まってなにがなんだかわからないし、お札に書く赤文字は薄くなっちゃうし、

男の子たちは勝手な動きをした。


でも、あのとてつもなくワクワクした気持ちは今でも忘れない。

自分たちで全部考えて、大人の指図を一つも受けずに準備した。

えりちゃんと笑い転げながら、取り組んだ。

当日の発表はおまけみたいなもので、互いの家を行ったり来たりしながら、準備に精を出したあの日々こそが、大切だったな、と思う。


あの頃、私の母も、えりちゃんのお母さんも、ひとつも口出ししなかった。

いつも、放課後は私たちに託された時間だった。